かぐや姫へ、愛を込めて 後編 / 三石メガネ

 

 

 次の朝、美月が部屋のドアを開けると、賢治に投げつけた鞄がドアの前に置いてあった。クリーム色の付箋がついている。

『コピー取りました。教科書返しておきますね。ひと足先にいってきます。学校忙しくて大変だけど、頑張ってね』

 大柄に似合わない小さな字が、行儀よく並んでいた。美月は文字が見えないよう折り畳み、部屋に戻ってゴミ箱の前に立つ。数秒考えたあと、何となく机の隅にそれを投げた。

 今日もまた、がらんとしたダイニングテーブルで朝食を摂る。バターの沁みたシナモンシュガートーストも酸味の効いたオイルドレッシングのサラダも、ひどく味気なかった。作業のような朝食を終えて、美月は母から逃げるように家を出る。

 友達と喋っている間だけが、美月にとって心安らぐひとときだった。今まではあの家も、あの家で過ごす時間も、たまらなく愛おしかったのに。どうしてこんなに苦しいんだろう。分かっている答えを伏せたまま日常をこなし、彼女はまた帰路についた。

「……ただいま」

 誰にも届かないようにと祈る。そのおかげか、今日は賢治の出迎えがなかった。気が抜けた思いで靴を脱ぎ、そして気づく。

 ――あの人の靴がない?

 ドアのガラス窓越しにそっとキッチンを見るが、やはり誰の姿もない。美月は妙に安堵して、ゆったりと二階に向かった。昨日とは対照的な気分でベッドに身を投げ、目を閉じる。そのままいつの間にかうとうとし、眠った。

 二時間ほど経っただろうか、その眠りを覚ましたのは母の怒声だった。ただごとではないと直感する。気が強い人とはいえ、二階にまで届くヒステリックな声を上げるなど、普段ではないことだ。

 美月は恐る恐る自室のドアを開ける。少しクリアになった母の声が、またしても感情的に響いた。つま先立ちでリビングに向かいながら、彼女は前にもこんなことがあったと思い出す。父の浮気がバレたときだ。胃が細い糸で締めあげられたように痛んだ。リビングのドアノブに置いた手が震える。

「やっぱりやましいことがあるんでしょ!」

 母はあのときと同じセリフを繰り返していた。

「ちっ違うよ、僕は誓って紗江さんだけを――」

「じゃあなんでよ!」

「本当にごめん、もう遅く帰らないから、ごはんも今すぐ作るから」

 わざとらしい大きなため息が、母の口から洩れる。

「夕飯の問題じゃないでしょ。何をすれば五時に退社して帰宅が八時半になるのかって訊いてるの。どうして私にいえないの? 妻にいえないことをしてたって、つまりはそういうことでしょう!」

 バンと叩きつけるような音がして、それきり賢治が押し黙る。家具屋の社長である母が机を叩くなど、普段ならあり得ないことだった。

 腹に溜まった冷たい水が、体中を駆け巡る。爪の先まで凍りつきそうだった。喘ぐように口を開くが、顎が微かに震えている。

 気が強い母ではあるが、元夫の浮気は相当に堪えていたことを美月は知っていた。母の涙を見たのはそのときが初めてだ。美月は、母にとって浮気というものがどれだけ忌まわしいものであるかを痛感している。大好きな美しい母を傷つけ、トラウマを植え付けた浮気。この先ずっと、わが身をなげうってでも母から遠ざけておこうと美月は誓ったはずだった。

 意を決してドアを開ける。熊じみた巨体が背中を丸め、ネズミのように縮こまって土下座していた。その前に仁王立ちする母は、整った顔立ちのせいか鬼気迫る怖さがある。

「……美月は部屋に戻ってなさい」

 怒りに凍りついた表情。その口元だけ溶かし、母がぎこちなく発した。

 美月が実父を失ったあの日が、ここに蘇っていた。ただひとつ違うのは、父が投げやりに怒鳴り返すことなく、ひたすら謝り続けているところだろうか。

「……ごめんなさい」

 口が渇いてろれつが回らないまま、美月は声を絞り出す。スカートを握りしめた手がわなないた。

「ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい……」

 心の奥底に押し込めていた言葉があふれ出す。泣き顔でくずおれる美月に、母は心の氷を解いた。慌てた様子で彼女の肩を抱き、転んだ幼児をいたわるように顔を覗き込む。

「美月、どうしたの? ほら、大丈夫よ、美月、お母さん怒ってないから。ねえ泣かないで、もうあのときみたいにはならないから……」

 美月が母を振り切り、賢治に這い寄った。彼の腹の下に隠されていた通勤鞄を引き寄せる。無実を証明するために頭よりも高く掲げた。

「あっ――」

 賢治が声を上げると同時に、何冊もの本が音を立てて落ちる。全て図書館で借りて来たらしい、偏微分と重積分に関する本だ。

「ごめんなさい、お母さん……お父さん、ごめんなさい」

 戸惑いの目を交互に向ける母の横で、賢治は呆けたように美月を見つめている。

 たっぷりと時間をかけて、ひと粒、その目から涙がこぼれた。

 

 

 結婚式もたけなわだ。

 美月がAラインのウェディングドレスに身を包み、両親への感謝の手紙を読み上げている。黒い留め袖に身を包んだ母は、目に当てたハンカチを手放せずにいた。美月が一通りの感謝を述べ、口をつぐんだ。ゲストが拍手をしようと手を上げる。そのときだった。

 手紙から目を上げ、美月が切り出す。

「――皆様も既に知っていることだと思いますが……父と私は、血がつながっていません」

 親しい者や親族には周知の事実だ。とはいえ固い表情になった美月を見て、戸惑いの雰囲気が会場に漂う。

「私が十五のとき、父はやってきました。私は嫌だった。こんなの自分の父親じゃないって……熊みたいに大きい身体も、身体に似合わない性格も、オヤジギャグも、着てる服だって。何から何まで気にいらなくて、だから……いじめました。母の見ているところでやると怒られるから、母の目の届かないところで……まるでシンデレラの継母みたいに、父に辛く当たりました」

 家族席の賢治が、口を一文字に結んで美月を見ていた。

「ひどい言葉はもちろん、無理難題を押し付けたりしました。痩せろといったり、宿題を代わりにやれといったり……。生意気な命令なのに、父は笑顔で応えてくれました。好きなご飯もお菓子もやめて、朝は四十分も早く家を出てウォーキングして、私の宿題のために仕事が終わってから勉強して……。母に知られれば私が怒られるからと、父は黙って耐えました。そのせいで母に浮気の疑いをかけられたときも、黙って母に謝り続けたんです。自分をいじめた私を守るために」

 つややかにメイクされた頬には、既に幾筋もの涙の道がある。けれど今流れているのは、感動からのものではない。悔恨の涙だ。

「お父さん。私が友達のお父さんみたいになれといったとき、どうしてあなたは嫌な顔ひとつしなかったんですか? 私は……私は、友達ほど良い娘じゃなかったのに」

「違う!」

 我慢できない様子で賢治が立ち上がった。あのときのように自責する娘へ、マイクも持たずに声を上げる。

「お父さんは嬉しかったんだ! ダイエットも宿題も、美月ちゃんがくれたチャンスだから……頑張れば家族になれるんだって思えたから、だからお父さんは嬉しかったんだよ!」

 司会の男性が小走りで賢治のもとに向かう。マイクを差し出すと、恐縮した様子でそれを受け取った。

「割り込んでしまってごめんなさい」

 賢治は一礼し、心を落ち着かせるように深呼吸をした。

「でもどうしても伝えたいから……君を勘違いさせたまま悲しませたくないから、これだけはいわせて下さい」

 会場中の目が賢治に集まる。それを気に留める様子もなく、まっすぐな眼差しで語り始めた。

「……美月ちゃん。この世で最も愛されるべき人は誰か分かるかい? お父さんはね、お母さんと結婚して、それが子供だと教えて貰ったんだ。お母さんとお父さんは、誰よりも君が大好きで大好きで、だから誰よりも君を愛して慈しんで、世界一幸せになって貰いたいと思ってる。冷たい言葉も僕への難題も、全部含めて美月ちゃんだよ。良いことも悪いことも全部ひっくるめて、僕たちは君を愛してるんだ。君に愛されたいからそうしてるわけじゃない。あのとき僕は、美月ちゃんが振り向いてくれなくたって構わなかった。いつかかぐや姫みたいに、遠いところにいく日が来たら……そのときちょっとだけ振り向いて、ああ悪くない日々だったかもなあ、って思ってくれたら、それだけで僕は幸せなんだよ」

 苦しげに顔を伏せる娘に向けて、父は柔らかく笑いかけた。

「だけどね、もしも少しでも辛いことがあったら、故郷を懐かしく思うときがやってきたら、そのときはいつでもお父さんを呼んでくれ。どんなに遠くても……例え月だったとしたって、お父さんはすぐに飛んでいくからね。なんたって君は僕たちのお姫さま。家具屋の娘のかぐや姫なんだから、なんちって」

 おどけたように首をかしげると、美月はうつむいたまま吹き出した。ようやく顔を上げた彼女はもう、雨上がりの空のように澄んでいる。

「……私、初めてお父さんのオヤジギャグで笑っちゃった」

 指先で涙をぬぐう。すると賢治は背筋を伸ばし、演技がかった仕草で一礼した。

「僕たちのかぐや姫。どうか嫁いでいくところが、最高の場所でありますように。故郷を懐かしむ暇もないほど満たされますように」

 誰ともなく拍手が沸き上がり、会場内を満たす。全ての人々が手放しで彼らを祝福していた。高砂席の新郎も、そっと美月の肩を抱き寄せる。夫に向けられた彼女の表情は、一点の曇りもなく晴れ渡っている。

 賢治はいまだ気取った格好で頭を下げていた。

 母が気遣わしげに、大きな背中に手を添える。

伏せられたままの顔からいくつもの雫が落ちていることに、気づく人は少なかった。

 

かぐや姫へ、愛を込めて 了

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