かぐや姫へ、愛を込めて 前編 / 三石メガネ
ダイニングルームは金色の朝日に満ちていた。
美月はセーラー服のリボンを結びながら奥へと向かう。母親譲りのぱっちりとした目を神経質に光らせた。
母の紗江がキッチンで洗い物をしている。伸びた背筋には凛とした美しさがあった。澄んだ鼻歌が陽光と溶け合い、部屋を彩っている。
美月は、母と同じくらい家を愛していた。ソファもベッドもキャビネットひとつに至るまで、全ての家具は母がこだわって選び抜いたものだ。近代的で機能的で、美しい。美月にとって、洗練された我が家は究極の空間だ。
しかし、そんな空間にそぐわないものがひとつだけある。
「あっ、み、美月ちゃんおはよう」
イタリア製の白いダイニングテーブルも、熊のような大男がいては台無しだった。ナイフとフォークでベーコンエッグを食べるより、手づかみで蜂の巣を丸かじりする方がお似合いの風体だ。これが赤の他人ならば眉をしかめるだけで済む話なのだが、新しい父親とあってはそうもいかない。
美月は華奢な手で、熊男の前に置かれた自分の朝食を持った。
「……あっちで食べようっと」
聞えよがしにいう。テレビの前にある小さなリビングテーブルに運び、巨躯の継父に背を向けた。こんもりとした背を丸め項垂れているのが、見なくても分かる。たかが十五の小娘に悪意を向けられて、彼ができることといえば無言で耐えることくらいだ。
「こらっ、意地悪しないの!」
キッチンに立つ母が一喝した。流れるようにうねる髪が、肩からはらはらと滑り落ちる。形の良い眉を吊り上げ美月を見るが、そんな母をなだめるのは、いつだって継父の役目だった。
「まあまあ紗江さん。こんな暑苦しい男、起き抜けに見たくないのは分かるよ」
「賢治さんはもう美月のパパなのよ。自分の夫が馬鹿にされてるのを見て黙ってられないでしょ」
「すぐに僕を認めちゃったら、前の旦那さんが浮かばれないじゃないか。美月ちゃんは義理がたい子なんだよ、ねっ」
「浮かばれなくて結構! 今ごろ浮気してた女とくっついて、大いに浮かれてるでしょうよ」
「さすが紗江さん、上手いなあ。僕もうかうかしてられないなんて。ほらほら、浮かれるとかけてみたんだけど、どうかな?」
――こっち見んな。
視線を感じ、美月は鼻の頭に皺を寄せた。こんな男が三十八歳で、しかも母の二歳下だなどとは、彼女は未だに信じられないでいる。
――もっと若々しくてスマートな五十歳だっているのに、なんでこんな。
美月は黙々と朝食を済ませ、家を出た。いってらっしゃいの声も、賢治のものには応えない。目は険しい光を帯びている。黒のミディアムヘアをふわふわと跳ねさせながら、彼女は大股で学校へと向かった。
「逆シンデレラじゃん」
下校途中、ユキが茶化したように笑った。浅黒い肌とふくよかな体格は、美月とは正反対だ。
「松宮家具の女社長と熊男が結婚なんてさあ、まさに逆玉って感じ。美月のママはどこに惚れたわけ?」
新しい父親は、母が社長を務める家具屋で働いている。もともと務めていた部下だったのだが、離婚協議中も献身的に支えられているうちに絆されたらしい。
「知らないよそんなの。魔法使いに目が悪くなる魔法でもかけられたんじゃないの」
投げやりな答えに、ますますユキがはしゃぐ。
「あの体格ならガラスの靴なんて木端微塵だよね。カボチャの馬車すら踏み抜きそう」
「むしろ牽引する方でしょ。大体あんな熊男、どこの継母がいじめられるのよ」
「またまたぁ、現在進行形でいじめてるくせにー」
「……ウザいから無視してるだけだってば」
何となく居心地が悪くなり、美月は言葉を濁した。シンデレラの継母のように、いわれなきいじめなどしたつもりはない。だが、いきなり現れて「父です」などといわれても、すんなり受け入れられるわけはなかった。
「でもさー。正直、美月の新パパみたいなのが来たらあたしも引くな。もっと選びようあるじゃん、イケメン連れてこいよって」
美月が思っていたことではある。しかし、ユキの口からいわれると妙に腹立たしい思いだった。
「……べつに、顔とかじゃなくて」
「んじゃ金?」
「そうでもなくて」
「だよねー、美月んち金はあるもん。なんか秘密でも握られちゃってたりとか?」
「もう良いよその話は」
不機嫌に吐き捨てて、朝と同じ険しい顔つきになる。ユキはきょとんとしていたが、すぐに昨日のドラマの話に移った。思ったことをそのまま口にするのは、彼女の長所でもあり短所でもある。けれど美月は、彼女ほど気持ちの切り替えが早くはない。あの俳優カッコイイよね、と口では話題に乗りながら、心の奥では先ほどの話題がとぐろを巻いていた。
「ただいま」
靴を脱ぎ、ひとりごとのような小声で帰宅を告げる。すると美月の声より数倍も大きい音をどたどたと立て、賢治が出迎えた。巨体にピンク色の三角巾とエプロンを付けている姿は、洋服を着せられたサーカスの熊を思わせる。
「おかえり美月ちゃん! あのさ、今日はシチューなんだけど、普通のフランスパンとガーリックトーストどっちが――」
「どっちでもいいです」
目線も合わせずに横を素通りした。彼は社長である母よりも帰宅が早い。意外と料理が上手いのもあって、夕食は賢治の担当になっていた。
「ま、待ってよ美月ちゃん」
『正直、美月の新パパみたいなのが来たらあたしも引くな』
継父の情けない声を聞いて、ユキの言葉が蘇る。なぜそんなことをいわれなければいけないのだ、と美月は奥歯をかみしめた。
――私だって、好きでこの人の娘になったわけじゃないのに。
「馴れ馴れしくしないで下さい」
振り向きざまにいい放つと、彼は大ぶりの肩をびくりと竦めた。
「だ、だって、僕たちは親子じゃ……」
「母とあなたが勝手に結婚しただけです。私まで巻き込まないで」
「そんなあ……」
困り果てた賢治を見て、美月の何かに火がついた。それは浮気をした実父への憎悪だったかもしれないし、意気地のない賢治への嗜虐心だったのかもしれない。
「あのさ、僕、悪いところがあったら直すからさ。家族になりたいんだ。美月ちゃんのお父さんになりたいんだよ」
「……じゃ、鏡見たらどうですか」
「へっ?」
とびきりの嫌味も間の抜けた声で返され、美月はさらにいきり立った。
「私の友達のお父さん、あなたより年上ばっかりだけどみんなもっとシュッとしてて格好良いですよ。父親面したいなら、先に自分のことなんとかして下さい」
いい切って、なぜか美月は心がチクリと痛んだ。
――私は悪くない。
何かの予感に背を向ける。ユキに『引く』といわれた私の方が可哀想なはずだ、と自分自身にいい聞かせた。
「……そうかあ……ごめんね」
さっきと同じ穏やかな、けれど気落ちを隠し切れていない声がした。
「僕、頑張るよ」
美月はその声に応えることなく、階段を上って自室に向かった。
次の朝、美月は階段を下りながら、やけにダイニングテーブルが広々としているのに気づいた。
「……お母さん、あの人は?」
「おはよう。賢治さん、急にダイエットとかいいだしちゃって。朝食のフルーツヨーグルトだけ食べて会社にいっちゃった」
「もう?」
「バスをやめて歩くみたい。他にも変なこといってたし、なんで急に……あんた、なんかいった?」
「知らない」
久しぶりにダイニングテーブルで朝食を食べた。ひとりの食卓は広々としすぎて、居心地が悪いくらいだ。パンをひと口かじったあと、スプーンでぐるぐるとヨーグルトを混ぜる。浮いたり沈んだりする果実を眺めながら、あまり口に運ぶ気になれずにいた。
美月の言葉にならないもやもやは、放課後にはイライラに代わっていた。その半分は、数学教師の出した膨大な量の宿題のせいでもある。遊ぶ時間をどう捻出しようか考えながら帰宅すると、いつも通り賢治が出迎えた。
「おかえり、美月ちゃん!」
無視しようと思っていた彼女が、思わずその姿を見て言葉を漏らす。
「……何、それ……」
昨日はポロシャツに女物のエプロンだった賢治が、紺と白のボーダーシャツに金のカフリンクスを留めていた。三角巾は黒で、同色のギャルソンエプロンまで着けている。
「会社帰りに買って来たんだ。店員さんに頼んだら、これを着ると格好良くなるって教えてくれてさ。これで、美月ちゃんのお友達のお父さんに、ちょっとは近づけたかなあ」
目をきらきらさせて話す姿は、美月よりも小さな子供のようだ。悪意や嗜虐心に出会う前の、無駄にまっすぐで純粋な目。かつて彼女も持っていたそれは、浮気を重ねた実父にあっけなく捨てさせられてしまったものだ。
「……店員に頼んで服買って、それで懐柔できたら安いものですもんね」
「いや、そ、そんな……あっ、この身体だよね? まだシュッとはしてないけど、もうちょっと待ってて。絶対痩せるから!」
「もう良いです」
会話を重ねるたび、冷たい水が腹の底に溜まっていく気がした。もしもこの男がシンデレラなら、と美月は考える。
――私はまるで、意地悪な継母だ。
足早に自室に向かうと、賢治が追いすがるように声をかけた。
「あ、美月ちゃん。ちょっと待って」
「私、忙しいんで」
「少しで良いんだ。美月ちゃんと話したい、どんなことでもいいからさ」
撥ねつけるように振り返る。あきらめの悪い継父に、さらに気持ちはささくれた。
「忙しいっていってるでしょ!」
気づけば、持っていた通学鞄を投げつけていた。ぶつかりはしなかったが、重い音を立てて賢治の足もとに落ちる。
「数学の課題、九十七ページから百二十ページまでの練習問題と実践問題全部! 五日後の提出日までに全部やったら、一分くらいは話してあげる!」
踵を返し、今度こそ階段を上る。腹立ち紛れにドアを閉め、ベッドに身を投げた。
ようやく静寂が訪れる。
あの問題集の答えは出回っていないし、継父は文系だ。あれだけの量の偏微分と重積分など、そうそう解けるものではない。しかもそれだけ頑張ったとしたってたった一分だ。
――あいつ、泣きそうになってるかも。
言動とは裏腹に気分が晴れない。全ては美月が蒔いた種だというのに。静かな時間も広すぎるダイニングテーブルも、あの男が味わっているであろう苦しみだって、全ては予想の範疇だというのに。
――本当は何がしたかったのか、自分でも分からない。
乾いた唇を噛みながら、泥のように横たわる。
――シンデレラの継母も、こんな気持ちだったのかな。
後編に続く(2019年5月3日公開予定)
- 小
- 中
- 大