2019/06/22

海月 最終回 / 芥田

『早く起きなさい。だから早く寝なさいっていったのに』

 怒気の甘い母の声を聞いた気がして、はっと目を開く。どれだけ深くまで沈んでしまったのだろう、辺りは真っ黒の絵の具を空間にべったりと塗りたくったように深い暗闇だった。見渡してみても母の姿は愚か、自分の姿さえ見失った暗闇で、私は途方に暮れた。

「とうとう、底にまで来てしまった」

 恐怖はなく、求めた安堵もなかったが、ただ私はつかれた、、、、。底に足がついたところで歩み始めるわけでもなく、座りたいわけでも、横になりたいわけでもない。

 ただ私はつかれたのだ。

 今朝見た夢のせいじゃない。私はずっと自分を偽って生きてきた。

 誰にも嫌われたくない。誰にも置いていかれたくない。だから自分を置いてけぼりにして、人ばかり追いかけてきた。

 いったいいつからその鬼ごっこを始めていたのか、もう記憶でも辿れないほど昔から、私は私と鬼ごっこをしてきたのだ。長い間、『私』を鬼にして、逃げていることすら忘れてしまうほど夢中になって逃げてきたというのに、今朝見た夢によって足を止めた途端、私は鬼に追いつかれ、タッチされた。

 

「今度は私が鬼になって散々逃げてきた『私』を捕まえる番」

 

「だけど、」

 

「私は私がわからない」

 

「ここには誰もいない」

 

 ただ自分が鬼になって、ふと我に返り気付いた今まで走ってきた疲労感だけが体に残った。さっき聞こえた母の声も、もう聞こえない。

「ここは寒い、せめて暖かい場所にいきたい」

「暖かい場所で、休みたい」

 足を一歩、引きずるようにして前へ踏み出した。

「いた……っ」

 感覚もふやけてきていたところへ、足の裏に突然刺さるような痛みが走って、素早く足をあげ、枯れた悲鳴をあげた。足下を確認したところで真っ暗で何も見えないのだが、じっと目を凝らしてみると、暗闇の中にわずかだがほかの平坦な底よりも少し盛り上がっている場所を見つけた。

 石でも転がってるんだろうか。

 ゆっくりとその場に膝を衝いて、そおっと手を伸ばす。初めて触れた床の感触は砂場らしく、ざらりとしたさわり心地だったが、盛り上がっているように見えたところまで這わせていくと、やはりそこだけが周りより少しだけ盛り上がっていた。二割の恐怖と、八割の興味で、砂に埋もれているらしいその塊らしきものを掘り出してみる。

 それは手のひらにころん、と収まる程度の、何かの欠片のような、石かどうかは定かではないが、感触は何かの鉱石のようだった。それは今にも消えてしまいそうな頼りなさで光っていた。

「あの時の流れ星だ」

 それは、触れようと手をのばしたけれど結局触れることは叶わなかった小さな思い出の欠片だった。それが今、手の中で、呼吸をしているように弱々しい光を放っている。周囲にかざして見たが、元々小さな欠片の小さな光では周囲の様子を窺い知ることはできなかった。

「何で、あんなに本が好きだったんだろう」

 肩を落として、手の中に収まった古びた思い出の欠片を見つめる。毎日毎日繰り返される母の小言すら苦にならないほど、私は本の何にそれほどとり付かれていたというのか。

「映画一本見切ることすらできない今の集中力じゃあ、字ばかりの本なんて到底読めない」

 思わずぼやいたその口から、小さな気泡が一つこぼれて、私の頬を撫でながら上っていった。それに併せて視線をあげてみると、頭上に何かが見える。上っていった気泡も、その何かにぶつかって弾けて消えてしまった。

「なんだろう、暗くて見えない」

 暗闇の中、かろうじて輪郭の一部だけが伺える。魚やクラゲなんて小さなものじゃない。もっと大きな何かだった。元からそこにあったのか、今突如として現れたのかすらも不明だが、その輪郭はただ静かに、微動だにせず、こちらを見下ろしているように見えた。私は手のひらの欠片をぎゅと握りしめ、軽く底を蹴った。

 すると先ほどまで重くのし掛かっていた水圧などなかったかのように軽やかに体は浮かび上がって、手で水を掻けば大した力もいらず、その輪郭の側にまでたどり着けた。

「ざらざらしてる……、木?」

 滑らかな輪郭に触れてみると、所々つるりとしていたり、ささくれていたりしていて、相変わらずその輪郭の全容はつかめず、何かもわからないが、手触りからして少なくとも生き物ではなく、木製の何かであろうことは分かった。

「それにしても、近付いてみると物凄く大きい。かといって船、というわけでもなさそう」

 握っていた欠片のささやかな光を思い出して、触れている輪郭に押し当てるようにして近づけてみた。すると小さな明かりは、朱い塗装が所々剥げたのであろう古く腐りかかった木の表面をぼんやりと映し出す。

「なんか、見覚えがあるような……」

 もう一度、所々丹塗りの剥げた寂れた木を撫でて、この妙な既視感はいったいどこから来るのかと記憶を探る。

「所々丹塗りの剥げた……?」

 頭に浮かんだ言葉にすら妙な懐かしさを感じた時に、どこかで「ぽちゃん」と音がした。この静寂な海で、何かが落ちてきた音だとすぐに分かった。どこかで、とはいったものの、私は自覚するよりも早く、その音がするであろう場所に、はじかれるように視線を向けていた。

「上から、何か降ってくる」

 思った通り、それは上から落ちてきていた。水中を泳ぐわけでもなく、まっすぐ私の頭上に落ちてくる。小さくて、か細い呼吸のように光っていて、今手の中にある星と同じものが、ゆっくりと、だが寄り道もせずまっすぐに落ちてくる。

 手のひらを差し出してその星を受け止める。

 

『ある日の暮方のことである』

 

 最初の星と同じように声が聞こえた。でもこれは母の声ではなく、低く、静かな男性の声だった。

「あっ」

 思わず声をあげた。その声が、というよりも、その文章の形が、今まで閉ざされていた記憶の蓋をこじ開けた。

「一人の下人が」

『羅生門の下で雨やみを待っていた』

 思わず、声をそろえて続きを暗唱した。

「“羅生門”だ」

 どこからともなく雨音が聞こえてくる。土砂降りではないだろう、かといって細雨でもなく、しとしとと、雨粒の一粒一粒がしっかりと土を穿ち、止む気配もなく降る雨の音。私はその雨を知っていた、こうして思い出してみれば、なぜ忘れていたのかと疑問がぐらぐらとわき起こるほどに。

「ぼちゃん」

 つーん、と脳味噌の奥がしびれるような気がした後に、また新しい星が降った。

 ごぼごぼと音を立てながら沈んでいく星の光が、数メートル彼方の前方に見える。

 中年の国語教師が、片手に教科書を開き、片手は教卓へ衝きながら、厳格な顔つきで掠れた低い声を隅々にまで響きわたる箱のような教室。私はその隅の席で、読みあげる早さがもどかしく、先走って読み進めてしまいたい気持ちを精一杯いさめながら、前のめりで教科書の活字を穴が開くほど見つめていた。

 今度は背後で「ぽちゃん」と音がした。

「芥川龍之介は魔法使いだ」

 小さな子供がサンタクロースにあこがれるように、私は出会ったその瞬間から、芥川龍之介に同じあこがれを抱いていた。

 退屈な教科書の黒いシミのような文字だけで、すっかり朽ちた羅生門や、雨の降る紅い夕日、雨止みを待つ若い侍の草臥れた背中などを色彩として表現する彼の文は、私にとっては実在する唯一の魔法だった。

 彼のあらゆる作品を図書館で借りてきては、彼の表現する人間性の色彩に魅了され、いつしか私は思うようになっていた。

「自分もこんな魔法が使えるようになりたい」

 いくつもの星が、一斉に降り注いだ。途端に、暗かった水中は明かりが点ったように明るくなり、ゆっくり落ちて来るもの、すいすいと落ちて来るものらに分かれて、まるで夜空の星すべてが流れ星かのような光景に、私は星を二つ握っていることすら忘れて見とれた。

 降ってくる星の思い出は様々だった。様々であるのに、すべて今まですっかり忘れていた思い出だった。

 彼のようになりたくて、生前彼が好んだというココアをスーパーでたくさん買い込んだ。

 文を書くには積み立てが必要という話を小耳に挟んで、いわゆる世間で文豪、と呼ばれる作家たちの小説や本を、バイト代をはたいて購入した。

 自転車に初めて補助輪なしで乗ることができた。

 初めて書いた文を人に見せたら、「おもしろい」といって貰えた。

 車の免許を取れた。

 ずっといきたかったあの店の料理が美味しかった。

 落ちてくる星は何百、何千と数え切れない数に及んで、真っ暗だった周りが一斉に明るくなる。目の前に現れた羅生門は丹塗りを赤々とてからせて、寂れた様子も消え失せ、新品同様の面構えになっていた。

「ぼちゃん」また新しい星が、私の胸元に落ちた。

 羅生門を読み終えた国語教師は、感想文を提出するようにと宿題を出した。原稿用紙を目の前に、私は感想文のタイトルを『はじまりの物語』と書いた。

 

***

 門は、どこかにいくためのものです。トイレ、と書いてある扉をくぐったなら、その先にはトイレがあるでしょう。階段と書かれた扉の先には上るにしろ降りるにしろ階段があります。だから、人生のいく先を見失って雨止みを待っていた若い侍は、泥棒のいる門をくぐってしまったことにより泥棒になってしまったのです。もし、あの門の上で出会ったのがお坊さんだったら、若い侍はお坊さんになっていたと思います。

***

 

 私はだいたいこのようなことを感想文に書いた。この感想文を読んだ国語教師は「おもしろい」と私の文を誉めてくれたし、私は誉められたことによって自分もまた、侍と同じように羅生門をくぐったような気がして、「文を書く仕事がしたい」という勇気が沸いてきた。侍は「生きるためなら泥棒も仕方ない」という泥棒と出会って、自分も泥棒になる勇気を得たが、私は私の書いたものを「おもしろい」といってくれる人に出会って、自分も芥川龍之介のような小説家になりたいと思える勇気が持てた。

「どうして忘れていたんだろう」

 これらの星はみんな、今の私を形作っているすべてじゃないか。“私”という厄介で面倒くさがりな人間の難解な設計図といっても良いくらいに、無数にある星の中で、たった一つ欠けたとしても“今の私”はあり得ない。そう思えるほどに、周りで瞬くすべての小さな星達は愛しく、少し煩わしいくらいに瞬いていた。

「忘れていたんじゃなくて、私が見ていなかっただけか」

 私が“私の羅生門”で出会った私の文をおもしろいといってくれる人のお陰で、私は羅生門をくぐり小説家になるべく歩み出したのだが、一人で歩く道のりに、いつしか寂しさを感じ、自分でも気付かない内に大勢の人が歩んでいる他人の道を自分の道だと信じ込んで歩いてきた結果、私の中の私を築きあげたもの達から目を背け、他人を見ては「自分には何もない」と泣いた。

 さっきのひしゃげながら上っていったクラゲは、私だったのだ。

「この世に、私と全く同じ人間がいるはずないのに、私はずっとそれを求めて右往左往している内に、自分の道とはぐれてしまったんだ」

 あれだけ周りを見渡しても見つからなかった自分の道が、後ろを振り返ってみれば簡単に見つかった。なんで振り返る、というだけの簡単なことができなかったんだろう。

 いや、簡単なことじゃなかったはずだ。私は、私が嫌いだったんだから。嫌いなものを鑑みることなんてできなかった。

 生まれてからずっと、私は私が嫌いだった訳じゃない。小さな頃はちゃんと仲良くおててを握って微笑みあっていたはずだ。一番の親友であり、一番の理解者として、常に私は私に寄り添っていたはずだ。

 

「なのに、私は」

 

「人に比べてできないことばかりを数えて、自分を批判ばかりしてきた」

 

 いつしか“自分らしさ”を忘れて、あの人はあれができた、なのに私はできない。あの人はそれもできるのに、私はこれしかできない。

「そんなの、当たり前じゃないか!」

 気付いたら私は叫んでいた。その声に、周りの星達はびりびりと一斉に震えているように見えた。

 

「私は、私でしかないんだから」

 

「私は、この世に一人しかいないんだから」

 

 一筋の暖かい涙が、頬を伝っていた。他人をうらやましがる必要も、自分が他人より劣っていると信じ込む必要もなかった。なんでそんな簡単なことも見失ってしまっていたのか。ただ、自分との再会に、喜びの涙が止まらなかった。

「今からでも、間に合うだろうか」

 自分との仲直りは、まだできるだろうか。あの時の夢の続きは、まだ辿れるだろうか。

「できるよ。私の道なんだから」

 どこからか降った私の声が、私を励ました。

「ほかの誰でもない、私の道なんだから」

 

 暖かいものに包まれるような心地良さの中、瞳を開いた。首まですっぽり毛布に埋まって、いつの間にか寝入っていたらしい。辺りはまだ暗かったが、手元のスマートフォンで時刻を確認する気にはなれなかった。目を覚ました先にある、カーテンを開け放したままの窓にいくつもの星が満天に輝く空が見えたからだ。生きて呼吸をしているように瞬くそれぞれの星達と、その真ん中で堂々と輝く月の光に心を奪われた。

「私の空だ」

 夢で見たままの光景が、四角く区切られて目の前に現実としてあった。目映い星達に囲まれ、その星達に劣ることもなく堂々と光り輝く月。まるで一枚の絵のようでいて、星の息遣いが鼻先に触れる気がした。少し欠けた月が、夢で見たひしゃげたクラゲによく似ていた。

 

「夜空の中での、月は……、私」

 

 細く欠けて心許ない光りで煌めくこともあれば、まん丸と肥えて輝くこともあり、時には夜空からすっかりと姿を眩ましてしまうこともある。

「雲が掛かっていたって、月は見えない」

 見えないからといって、月はけしてなくなったりはしない。日によって、見えない日や、欠けてしまう日があるだけだ。

「なくなったわけじゃなかった」

 どこか日向にも似た暖かい月明かりに見入る瞼を次第に重くする、母に似た心地良い微睡みに「もう少しだけ」と欲張りながら意識を溶かした。

 

 毎日毎日、飽きもせず時間ぴったりに鳴るアラームは、私が目を覚ますまで決して鳴り止まない。

「まるで母みたいだ」

 うんざりしながら仕方なく体を布団から引っ張り起こす。何も変わらないいつもの朝だ。ばたばたと身支度を整え、朝食を食べる暇もないまま慌ただしくアパートから飛び出す私に、「だから早く寝なさいっていったでしょ」というあきれた母の声が聞こえてくるようだった。

 職場までは電車で十五分。駅までは歩いて十分の距離にある。アラームはしっかり余裕を持った時刻に設定しているのに、目覚ましを黙らせてからいつも暫くベッドでうだうだしているせいで、駅までの道のりはほとんど毎日走る羽目になる。

「明日こそは早起きしよう!」

 横から強く吹く春風を一身に感じながら、毎日走りながら後悔している「明日こそ」を繰り返す。そういえば学生時代も私はこうだった。母に揺すり起こされ、いつもの小言を浴びながら朝食も疎かに家を飛び出して、学校までの道のりを今のようにぜえはあいいながら駆け抜けていた。

「私、子供の頃から、ずっと私のままだ」

 今年でもう二十七になる。会社では新卒で入ってきた若い子達がちやほやされているのを傍目に、「私なんてもう見向きもされない。このまま透明人間のような人生を一生送っていくんだ」と、ぼんやりとした悪夢を自分の未来だと信じ込んで、絶望の暗雲の中、途方に暮れていた。そこへ春の強い風が吹き込んで、脆弱な私は容易く負けた。ぺっきり折れて、へこたれた。

「良い大人がみっともない」と自分で作りあげた理想の私に責め立てられて、深く沈んだ底で、私は星を見た。今まで知らず知らずの内にせっせと作りあげてきた満天の星空を見た。他人に比べ、何も持っていないと理想の私にずっといい負かされてきた私が、二十七年を掛けて作りあげてきた星空は、紛れもなく私だけが持っている、私だけの空だった。もしかしたらそれは窓枠で四角く区切られた小さな空かもしれなかったが、とても清々しい気分だった。もう桜も散っていくというのに吹き抜ける風はしんと冷えて、走っていると鼻先が冷たくなった。ぜえはあと喘げば喉が乾いた。きゅうっと痛むわき腹を抑えながら、足を緩めて空を仰ぐと、朝の澄んだ遠い空のそのまた遠くに、半透明でクラゲによく似た月がまだのんきに浮かんでいた。

 

 たかが夢一つ、それは魔法のように一瞬で私の中の何かを大きく変えることはなかった。だが、ずっと変わらず続いてきた私を、星々の軌跡から思い出すことができた。

「私は、私を思い出した」

 たったそれだけで、私の日常は何一つ、変わることも改まることもなかったし、夢もただの夢にすぎなかったのかもしれないが、人間の詰め放題のような電車内で、いつもは憂鬱に揺られていくだけの私が、今日ばかりは好きな歌の歌詞を繰り返し何度も口ずさむ幼稚園児のような純粋な喜びに包まれながら、あることばかりを頻りに考えていた。

「今日の帰りは本屋に寄ろう」

 

海月 了

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