海月 第三回 / 芥田
暗くて冷たい海に沈んだ星は、虚無感の涙よりも質量があると見え、浮かび上がることなくゆっくりと沈んでいって、ついには底に落ち着いたのか、水面に朧気に投影されていた記憶も、透けるようにして消えた。沈んでいく道すがらの糸のような軌跡は、か細い懐かしさを心に残していた。その軌跡を拾いあげようとして、心の縁からそっと海の底を覗き込んだが、糸くずのようにふよふよと水中をたゆたっている懐かしさに、触れようとして手を伸ばすと、逆に糸は腕に絡み付いて、体ごと、海の中へと引きずり込んだ。私は「あっ」と声を出したっきり思わず目をつむった。それでも時間が止まるはずもなく、体は水中へと投げ出された。針が全身に刺さるような冷たさと、大きな水しぶきを立てた衝撃に思わず体を竦めたが、体に水以外のなにがふれるわけでもない。浮いているのか、沈んでいるのかも判断もできず、堅く閉ざした瞼の裏側で恐怖心が風船のように膨らんで私を内側から圧迫する。
「目を開けたら大きな鮫が目の前にいて、口を開けているかもしれない」
「もしかしたら、それよりももっと恐ろしいものが目の前にいるかもしれない」
「だとしたらすぐに逃げなければ、逃げるためには目を開けなければ」
「だが、目を開けたところで逃げきれるのか? 目を開けたところでどうせ食べられる運命なのならば、目を開けてよけい怖い思いをするより、このまま目を閉じたままの方が、潔いのではないか」
今にもはじけそうなほど膨らんでいる恐怖心の中にどす黒い“たられば”が流し込まれて、ふよふよと浮いていた恐怖心が、どすんと質量を増して重くなる。それによって浮力を失った私は、どんどんと底へ引きずり込まれるようにして沈んでいくのが、頬を下から上へと撫でる水流によって感じられた。
「このまま沈んでいって良いのだろうか」
水中は暗く濁っていて、底がどれほどの深さにあるのかすらはっきりしていないことを思い出した。
「このまま沈んでいったら、どうなるのだろう」
また鉛のような恐怖が新たに生まれる。それに比例して体は沈むスピードを早めていくので、勇気を出して瞳をそっと開いてみた。
「……きれい」
喉元にまで絡みついていた鉛は、目を開いた時にはもうすでに跡形もなく消え失せていた。ゴーグルもつけていないのに水中は視界がぼやけることもなくナイフの先端のように鋭い、どこか神秘的なまでに澄み渡っていて、その水の寂しい美しさに目を奪われた。今が夜なのか、あるいはずっと陽が差し込まないほど深いのか、水中は暗く、底は疎か、ほんの数メートル向こうさえも見通せない、まるで星のない夜空にぽつんと置き去りにされたような心細さにより一層水の冷たさが肌に刺さるようだったが、もう私の中に恐怖は存在しなかった。
「ここには、なにもないのだろうか」
見あげてみると、水面はもうすでに遙か彼方にあるようだった。といっても明かりも何もない暗闇では、正しく水面を把握することはむずかしかったが、少なくとも私が落ちた時に立てただろうさざ波に揺れる水面は、ここからじゃ窺い知れなかった。
「なら、下は…………」
そこへ、頬を突然何かがそおっと撫でた。
未知の暗闇の中、得体の知れないものが頬を撫でたのだ。驚いたどころじゃない、闇雲に手足をばたつかせてその何か、から遠ざかろうとした。目印のなにもない、上下左右すらおぼつかない水中では、ばたついたところで自分がどれほど何か、から遠ざかれたのかわからなかったが、暫くばたついて落ち着きを取り戻すとぐしゃっと無様にひしゃげて、つぶれたクラゲが、絶えず蠢きながら上っていく姿を見た。
「どこにいくの」
クラゲは何かから逃げるため急いでいるのか、それとも呼吸を求めて一心不乱に水上へと駆け上っているのかわからなかったが、私など気にも留めず、問いかけに答えることもなかった。その姿はどちらにせよ苦しげに見えた。
「いきものは、いるのか」
クラゲはいったいどこからきたのか、改めて見下ろしてみる。今自分がいるところでもすでに暗闇だというのに、底へ向かうに連れ、その暗闇は一層濃くなっていって、見つめているとそれだけでも吸い込まれてしまいそうな漆黒だった。私が触れようと手を伸ばした思い出の懐かしい軌跡は、どこにも見当たらない。また心細さを思い出して、早くここから抜け出したくなった。
「上にいくべきか下にいくべきか、でも呼吸するためには上に向かわなくては……」
「あれ」
「そういえば私が水中に落ちてどれくらい経ったのだろう」
「三分だろうか、五分だろうか。あるいは十五分?」
「少なくとも確実に一分以上経っているのに、苦しくない」
呼吸のことなど今に至るまですっかり失念していた。注意して見てみても口から気泡一つ出てこない。試しに意識して深呼吸をしてみたが、口に水が流れ込んでくることさえなかった。
「普通に吸えて、普通に吐ける。だが浮いているわけじゃない」
水中の中にいるのだという実感が、肌に触れる冷たい水の感触が、確かにある。
「なら、私が水だと思っていたこれはいったいなんだ」
水の底から、何かから逃げるようにして浮上していったひしゃげたクラゲに思いを馳せる。
「あのクラゲはどうなったのだろうか」
見あげてみてももうクラゲの姿はどこにも見当たらなかった。
何かに追われて逃げているのだとしたら、水面を目指したところで逃げ切れたのだろうか。水面に逃げたところで、クラゲは水中でしか息ができないから、水面がいき止まりということになる。ここが海だとするのなら、大きく広い海で数少ないいき止まりは水面か、底に違いない。左右にならいくらでも逃げられるだろうに、何であのクラゲはあんなにも一心不乱に、私にぶつかったことにも気付かない風で水面に向かって逃げていったのだろう。
まるで素潜りをしている人が酸素を求めて水面に向かっているかのようだった。音も光もない真っ暗の世界で、もちろん道しるべさえないのに、ひしゃげた体に鞭を打って泳ぐりっぱなクラゲの姿は、私の脳内に鮮烈に焼き付いて離れない。
「またあのクラゲに会えるだろうか……、あれ」
ほの暗い底を覗き込んで思いを馳せていたその視界に、ちかちかと光がちらついた。暗闇の中で久しく見る光に、思わず身を乗り出して懸命にその光を見据えた。それは決して大きな、例えば出口を象徴するような光ではなく、日が暮れて空を見あげた時に一番はじめに見える星のような、針の先ほどの光で、それが海底らしき場所で、あるいは沈んでいっている最中なのかもしれなかったが、とにかく遙か遠くの暗闇の中で、瞬いている。
『あなたの夢はなんですか』
脳内で夢がまたぶり返した。その言葉がずっしりと体中にまとわりついて、そこで初めて息苦しさを感じ、とっさに浮上しようと体をうねらせたが、先ほどのクラゲのようにうまくはいかない。手で水を掻いても掻いても、一向に進んでいる気がしないどころか、体にまとわりついた言葉が重りとなって、もがけばもがくほど沈んで体に水圧がかかっていく。
「ひきずりこまれる」
沈む早さは次第に増していく。
『将来なりたいものは何ですか』
希望に満ちた風が吹き抜ける教室内で、私だけが答えを知らなかった問題が、足に食らいついて離さない。私はどんどん沈んでいく。暗くて、元いた場所からどの程度沈んだのかもわからない。
もしかしたらさっきのクラゲは、この言葉から逃げていたのではないだろうか。あのクラゲは逃げ切れたのだろうか。
容赦なくのしかかる水圧が苦しくて、つらかった。逃げ出したいともがきもした。だが、同時に食われてしまえばもうあらがわなくてよくなるという安堵が、もしかしたら恐怖よりも大きく私の心を占めていたのかもしれない。
「もう何もかも諦めてしまった方が楽だ」
徐々に恐怖は薄まり、意識すらぼんやりと輪郭を鈍らせ、目を閉じようとした時に、視界にまた光がちらついた。
「もういいよ」
光が希望の光であれ、怪物の眼光であれ、もうどうでも良いと思った。頼りないくせに、眠るには煩わしい煌めきに、嫌気が差して目を閉じた。
最終回に続く(2019年6月22日公開予定)
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