パラダイム・ロスト 第一回 / 大友 青

 二日目、濃い目に淹れた無味無臭のブラックコーヒーが僕の頭痛を少しだけ緩和した。カフェイン接種は一種のおまじないみたいなものだろうが、特別思いこみが激しい僕の体にはよく馴染んだ。白い机に埃が溜まるよりも、黒いPCディスプレイに埃が溜まる方が目に留まる。汚れているな、そんな何の感情もない言葉が脳裏を掠めるが、埃を払う事もせず、暗転するキーボードを黙々とタッチし続ける。

 僕にしか解読不能な英語の羅列。千を超える行数を打ち込んだ後に、一括コンパイルを実行する。

 『解析エラー:107』

 その結果を鼻で笑うと席を立った。

 設計図も見ずにプログラムを書くとこういう結果になるのは目に見えていた。ただ僕は解析結果に興味が無ければ、書いたプログラムに意味もない。禁煙してから、手持ち無沙汰を解消するために無心でキーボードをタイプする癖がある。今回のケースもそれに違いなく、そうさせた出来事が頭の中でぐるぐると回り続けていた。

「私は人を殺す事で満たされるの」

 耳元で囁かれたように幻聴が聞こえ、目の前で起きているかの如く、鮮明に情景がフラッシュバックされる。

 こめかみにボルトを打ち込まれるような頭痛と世界が回る眩暈に襲われ、ふらふらした足取りで休憩室の扉を叩き開ける。いくつにも区切られたうちの一つのブースに転がり込み、乱暴に椅子を引くと体を落とし、机に上半身を倒れ込ませた。簡易ミーティングが可能なように作られたスペースは僕の体を外界から隔離してくれる。

 きっとまた同じ夢を見るのだろう。

 それは否応なしに僕の前に現れるのだ。

 現実に起こった事を夢で見る。夢が夢でなくなるのに、現実は夢にはならないのだ。

 夢であれば、どれだけ気が楽だったであろう。

 そんな嘆きも虚しく、目の前にふぁさっと暗幕が掛けられた。死刑囚はこんな気分なのかもしれない。

 

 

 真新しさを感じない、味気のない二階建てのハイツ。たったの八部屋しかないハイツではあるが、駅から離れたひとけの少ない場所に位地しているわけか、空き部屋が目立っている。その中の一室に僕の彼女――ユウの部屋はあった。二階の一番奥。彼女は僕と出会った五年前には既にこの部屋に居住を構えていた。

 夢の中の僕は、ユウの部屋を外から見上げると、これから行うサプライズを思い浮かべ、ニヤケ顔をする。端から見れば変質者にしか見えない。僕はこの時、こんな気持ちの悪い顔をしていたのか、と唾を吐きたくなった。

 『僕』を客観的にいろいろな視点で見られる環境。これが現実と夢を区別できた理由であった。幽体離脱しているような不思議な感覚だ。だが、これは昨日、実際に起きた現実であり、僕の脳がそれを都合の良いように再構築しているに過ぎないのであろう。

 ユウの部屋の鍵は、【緊急時用】というお題目でずいぶん前から預かっていた。だが、これまで不在時に訪れた事は一度もない。だからこそのサプライズプレゼントであった。

 彼女が仕事から帰ってきて、部屋の中に僕がいたら、きっと驚いた顔をしてくれるだろう。ユウが好きなマロンケーキは冷蔵庫にしまい、マルゲリータピザは食卓の上に置いた。百円均一で買ってきたクラッカーと三角帽子などのパーティグッズはレジ袋に入れたまま椅子の背もたれにひっかける。

 僕は必死に「帰れ」と昨日の僕に訴えかけた。

 この先に待つ現実は、とても僕が受け入れられる現実ではなかったのだ。

「なんか緊張してきたな」

 照れながら汗をハンカチで拭いている自分を殴ってやりたい気分だった。

 このまま二時間、ユウが帰ってこないのも知っている。携帯電話を開いては、彼女から連絡が来ていないかを何度も確認する。連絡したい衝動を抑えて、すぐにバックライトを消す。

 暇を持て余した昨日の僕は、本棚に並ぶいくつかの小説の中から、タイトルに惹かれた一冊を手に取った。タイトルは思い出せず、その表紙もぼんやりと霞んでいる。

 昨日の僕はその小説を読み始めた。内容はどうだったか、時間を忘れて読んでいたので好きなミステリーかホラーだったと思う。残念ながら読み切る前にユウが帰宅し、読んだ内容を全て忘れてしまう事が起きるなんてこの時の僕は思ってもいないだろう。

 時計の針の音だけが鳴っている静かな空間だった。

 外からカンカンカン、と階段をのぼる甲高い音が聞こえて慌てて本棚に小説を戻した。パーティグッズの入ったレジ袋からクラッカーを取り出すと時間を確認する。

 時刻二三時一七分。

 ここで夢が覚めてくれないか、と僕は必死にもがいた。しかし、無情にも夢は続いてしまうようだ。

 部屋の扉がゆっくり開かれる。錆びた蝶番ちょうつがいの軋む音が耳に触る。

 ユウは黄色いヒヨコの合羽を着ていた。

 雨は降っていないのに。

 ユウと僕は視線を交わらせた。

「ハッピーバースディ」

 驚くと思っていたのに、ユウは無表情だった。昨日の僕が用意したクラッカーがパンっと乾いた音を鳴らす。それでもユウは無表情だった。

 ――どうしたの? 勝手に来て怒ったのか?

 そんな事を言ったと思う。

 無言の彼女に近づく。視界に映る彼女の姿が少しずつ大きくなるにつれて、立ち姿の異様さに気づいていくのだ。

 彼女が着ている黄色いヒヨコの合羽に、赤い斑模様がついている。それは筆につけた墨汁が跳ねたようだった。

 彼女の右手には分厚いナイフが握られていた。それがサバイバル・ナイフであった事に今更ながら気がつく。だが、夢で気がつくという事は脳がはっきりと認識していたのだろう。危険信号を出していたのかもしれない。実際には予想していない状況に半ば混乱していた。

 無表情だと思っていた彼女は、少しだけ笑みを浮かべていた。

「ユウ……?」

 この時の僕はまだ何が何だかわからないでいた。僕に気がついたユウがサプライズ返しをしようと準備していたのか? などと脳天気な事を考えていたような気もする。

「入っていいかな」

 ユウは静かな口調でそう言って扉を閉めた。シューズボックスの上にナイフを乱暴に放り投げると、長靴を脱いで僕の横を通り過ぎ、リビングに向かう。僕はそんな彼女を目で追う事しかできないでいる。

 食卓の上を見たユウが目を輝かせ、ようやく感情の入った声を出した。

「わ、ピザだ。ありがとうシン」

 やはりサプライズ返しか……と笑顔でリビングに向かっていく。

 だけど、夢を見ている僕は、この一言で心臓を鷲掴みにされているような痛み、肺が縮んでしまったかのような息苦しさ、そして奥歯がガチガチと重なる程の悪寒を感じた。

 ――早く、覚めてくれ。もう、これ以上は見たくない。

 

第二回に続く(2019年3月17日公開予定)

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