2019/06/10

海月 第一回 / 芥田

 

「みなさんは、将来何がしたいですか?」

 たしか、春休みが終わりを告げた始業式のホームルームだった。一新したクラスメイトと、席の並びに私たちは一喜一憂していた。友達とクラスが別れてしまった。好きな子の隣の席になれなかった。苦手な子と同じクラスになってしまった。大親友と隣同士の席になれた。校庭では卒業式の余韻のように、桜が残りの花弁を散らせてさめざめと泣いている中で、私たちはそんな細かなことで絶望し「もう死にたい」と嘆いたり「もう死んでもいい」と歓喜した。その瞬間、私たちは大まじめに高校生活最後の一年間を謳歌できるか否かの全ては、クラスメイトと、席順に掛かっている、と信じていた。少なくとも、私はそうだった。そこへ一石を投じたのが、担任が黒板に大きく横書きしたこの一言だった。

「もう、たった一年しかありません。二年生のときにも進路調査をしましたが、夏までに自分の進路を確定できるように、みなさんが将来やりたいことは何か、何になりたいのか、しっかりと考える時間を大切にしましょう」

 死んだように静まりかえった教室の中で、先生は、だいたいこのようなことを私たちにいった。

 この時の未熟な私には、やれ席順だ、やれテストの点数だ、とごく目先のことで死ぬほどの喜びを感じたり、絶望を感じたりするのに忙しく、先生が目前に迫っているという“将来”の輪郭すら、見えていなかった。

 

 久し振りに夢を見た。いつも夜布団に入って目をつむれば、暗闇を自覚する間もなく眠りに就き、睡眠を自覚する間もなく、アラームががなり立てる朝がくる。そうして一日は電車の窓から見える景色のように、容赦のない速度で過ぎ去っていく。「あっ」と思った時にはもうそれは遙か彼方で、二度と手が届かない。

「将来、何がしたいですか?」

 物凄く鮮明で、抽象的な夢の光景が、今でも脳裏に鮮やかな残滓を残している。

 春の穏やかな日差しによって萌葱色に輝く黒板に白く踊る文字。通気のために開けられた窓からは心地の良い温い風が吹き抜け、干したての布団のような香りを運んでくる。窓の外に目をやると、そんな日差しをたっぷり吸いあげた金色のグラウンドが桜の花弁に濡れていた。すうっと、そこに吸い込まれる浮遊感を感じたところで、アラームに怒鳴りつけられ、追い立てられるようにして仕事に向かった。

 

「もう二十時……」

 帰宅し、時計を見て思わず嘆く。秒針までもが、私に残酷な速度で進んでいく。結局朝に見た居心地の悪い夢が色彩を失うことはなく、残像効果のように断片的に脳内に貼り付いたままで、仕事の疲れをより一層濃厚なものにした。

「将来、何がしたいですか?」

 この問いかけが、一日中、真っ暗な頭のどこからか浮かび上がってくる。一度浮かび上がってくればなかなかいなくならない厄介な奴。それどころか忘れようと意識すればするだけ膨らみ育っていく。決して逃げられはしないのに、脳内の問いかけから逃げるように飲みかけのマグをテーブルに置いたっきり、もう眠ることにした。苦手なブラックコーヒーの水面は、口内に残る仄かな苦みも含めて、今朝の夢が私の心に流し込んだ暗闇に似ていた。

 ベッドマットと、掛け布団の隙間に体を滑り込ませて目を閉じれば、瞼の裏を見ているのか、それとも私の思考の中なのか、暗闇の中にチョークの粉っぽさをそのまま残した白い問いかけが浮かび上がってくる。それはもはや問いかけのふりをした脅迫だった。

「やりたいことばかりできるわけないだろう、大人なんだから」

「別に今が不満なわけじゃない」

 安定した職に就き、収入も得ている。帰るべき家があり、暖かい寝床もある。日々仕事に追われ、不満など抱く暇もない。目を閉じたままうわ言のように反論を続けた。

「将来やりたいことはなんですか?」

 まるで、あの時の問いかけに答えが出せないままでいる私を責めるような夢だった。高校二年生の冬、ほかのクラスメイトが「医者になりたい」だとか「美容師になりたい」だとか明確な将来を描いて進学先を決め、問いかけへの答えを出していく中で、私は答えが出せなかった人間だった。当時、私は、恋だのファッションだの、友人と遊んだりすることに忙しく、進路について、ましてや自分の将来について真面目に考えようという気すら起こさず、大学への進学を希望した。

「大学にいけばあと四年は何も考えなくて済む」

 猶予の先延ばしでしかなかった。

 何となく大学へ進学し、結局その四年間でも、恋だ、流行だ、友人だ、と、高校生同様に将来について考えることを先延ばしにしている内に、あっという間に四年の月日を消費してしまい、大学が薦めてきた求人リストの中から何となく選んで就職した。

 そこで、自分の将来を決断することから逃げきった、と安心してふわふわと生きていた私が今更、追いついてきた過去を圧し黙らせようと、あれこれ理屈じみた言い訳をこねて暗闇の中に投げつけてみても、過去は沈黙するどころか、霧散するはずもなく、逃げてきた歳月分に膨れ上がった虚無感に、手痛いしっぺ返しを食らって心の底には、ぽかんとした穴が空いた。

 空いた穴は気にしないでおこうとすればするだけ存在感を増してくるし、空っぽの心はカラコロと虚しい音を立てる。

 今まで心の中を満たしていたものが全部溢れ出てしまったからなのか、あるいは、元々中身は空っぽで、気にもならなかったのが、穴が空いた拍子に何もない空洞が気になり始めただけに過ぎないのかもしれなかったが、その音が余りに煩わしく、心を満たせと急かす。

「せっかく、遠回りして借りてきたのに」

気晴らしに映画でも見ようか、とレンタルショップに立ち寄って借りてきた数枚のDVDを思い出してぼやく。夜更かしに備えたコーヒーまで用意したものの、夜が更けるにつれ心の空洞によってもたらされる倦怠感というか、虚無感が濃くなってきて、ついには映画を鑑賞できるだけの集中力も保てず、ストーリーがさっぱり頭に入ってこないばかりか、肝心の心すら満たされずに、映画一本すらままならず途中で見るのをやめてしまった。結局、脳内にチョークで書かれた文字が消えることはなかった。

 

第二回に続く(2019年6月15日公開予定)

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