仰ぐ / 大友 青
ある夜――。
「月が綺麗ですね」なんて、ふざけたセリフで声をかけてくる男がいるなんて思ってもみなかった。若者がふざけているだけだろう。だから、そのセリフが自分に向けられているなんて思わなかった。
「聞こえてますか?」
空を仰ぎながら、缶ビールを口元に運ぶ。人肌ほどにぬるい液体が、ほんの少しだけ喉を通過した。缶ビールは嫌いだ。ううん、お酒はどれも得意じゃない。それでも今日だけは、アルコールの熱に呑まれていたかった。
「お姉さん、ひとりですか?」
耳元で声が聞こえ、心臓がびくついた。慌てて声のほうへ視線を向ける。私よりも少し年上だろうか。しっかりとした顔つきの男性がひとり。私の隣に座っていた。
「私ですか?」
「ほかにいますか?」
彼はくすりと小さく笑う。
「ナンパならほかをあたってください」
面倒くさい。ひとりにしてほしい。ましてや男と話をする気分じゃない。私がそう言うと彼はすっと空を見上げた。
「ナンパじゃないんで、隣に座っていてもいいですか?」
不思議なひとだ。リズムがまるで掴めない。
「どうしてですか?」
「今日だけは、ひとりになりたくなくて」
「変な意味ですか?」
「変な意味じゃないですよ」
彼はまた優しく笑った。なぜだろう。ひとりになりたいのに、このひとの独特な調子が嫌いじゃない。それでも今日だけはひとりでいるべきだと思い、席を立とうとした。
「聞いてくれます?」
彼は空を見上げたまま口を開いた。私は離れるタイミングを逃してしまったらしい。数センチ浮いた腰を下ろし、もう一口、缶ビールを喉奥に流し込む。それが合意と取れたのか、彼は続けて言った。
「僕、婚約者がいたんですが、ちょうど一年前に死んでしまいました」
「え?」
あまりに驚き、目を丸くする。
「よく、彼女とこうやって空を見上げていました。日中の青空も、夜の星空も、デートのときにはたぶんいつも。というより、僕らのデートはこれしかなかったんです。彼女、病気でして。何年も病院の敷地から出られないまま、逝ってしまいました」
「そうですか……それはお辛かったでしょう」
なんて言葉を返せばいいのかわからなかった。私なんかが安易に踏み入れていい話じゃない。でも、その辛さの本質を私はよくわかっていた。
「月を見上げるあなたをみて、なんだか懐かしくなって……気づいたら隣に座ってしまっていました」
胸のあたりに渦巻いた黒いモヤが、アルコールで熱を帯びて、偶然出会った彼の境遇がしゅわしゅわと炭酸ガスを発生させる。ぱちぱちと弾けながら熱が体を駆け巡るのを感じた。私の体は到底それを受け止めるだけの大きさはなくて、目と呼ばれる穴からつらつらと溢れ出た。
一年前。
私には婚約者がいた。大学時代の先輩で、年は一つ上。笑った顔がくしゃくしゃになる犬みたいに人懐っこいひと。
ごはんを食べるとき、右手でうどんをすすり、左手でカレーライスをすくうひと。
夜眠るとき、枕を抱かないと眠れないひと。
デートにいくとき、必ず五分遅刻するひと。
でもあの日、彼は五分経ってもこなかった。
『ごめん! 五分遅れる』
彼からのメッセージを何度も確認した。
『遅いなあ。五分なんてもうとっくに過ぎてるのに』
一時間経ち、二時間経ち、それでも彼はこなかった。それもそうだろう。彼は私を残して、交通事故で帰らぬひととなっていたのだ。
「ずっと一緒にいるって言ったのに! ジジババになっても、馬鹿やってるって約束したのに! 結婚するって約束したのに……どうして、どうして死んじゃったのよ……」
気が付けば、私は見ず知らずの彼に向かって泣きわめいていた。そんな私の話を聞き、彼は眉尻をさげ、必死に口を紡ぎ、むせび泣いている。男のひとの涙をみるのはひさしぶりだった。
奇遇にもちょうど一年前。私と彼の最愛のひとはいなくなった。その心の痛みを知っているからこそ、私たちが赤の他人だとしても、恥ずかしがることもなく素直に泣くことができた。
あのひとはたくさんの愛を私にくれた。ひとを愛する心を教えてくれた。代わりなんてきかないことを教えてくれた。今でも目を閉じれば、あのひとの声が、あのひとの匂いが、あのひとの笑顔が、まるで昨日のことのように私の五感を愛撫してくれる。
一年経ったら忘れよう。そう思っていたのに。そう決めていたのに。そう意識すればするほど、彼という色がより彩られていく。人間の記憶なんて信用できたものじゃなくて、会わない時間が長くなれば長くなるほど、彼は私のなかで美化されて、忘れるなんてできるわけなかった。
「人間、いろいろありますね」
「いろいろありますよ、ほんと」
涙を拭いて、ふたりしてふふっと笑う。
「それじゃあ」
「ええ、それじゃあ」
またね、とは言わない。私たちはお互いに名前も知らない赤の他人だから。二度と会うこともないだろう。
それでも、今日だけはふたりでいられてよかった。そう思えた。
無理に忘れようとするのはやめよう。
人間、忘れたくなくても、いつしか忘れてしまう生き物なのだから。いつか綺麗さっぱり忘れてしまうまで……それまではずっと彼の傍にいたい。
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