パラダイム・ロスト 最終回 / 大友 青
真新しさを感じない、味気のない二階建てのハイツ。たったの八部屋しかない建物ではあるが、駅から離れたひとけの少ない場所に位地しているわけか、空き部屋が目立っている。その中の一室に僕の彼女――ユウの部屋はあった。わざわざこの場所に部屋を借りているのは、目立たないためだったのだろう、と今なら思える。
まっすぐに僕を見つめるユウ。その表情は何かを覚悟した表情であった。
食卓の上に出された麦茶に口をつけずに、僕は言う。
「僕は君と一緒にいる」
その答えが信じられない、と言った表情に一変する。
「私はあなたと一緒にいられない」
やはり僕が思っていた通り、ユウは僕と別れるつもりだったのだ。全てを打ち明けて、僕のためを想って。しかし、僕のためを想うならば一緒にいてほしいと思った。
「僕がどちらの答えを出しても受け入れると言ったじゃないか」
「だめなものはだめ」
彼女の表情はどんどん曇っていく。そして次第に雨が降り出した。今夜は嵐になりそうだ。
「シンは私を抱いた時、幸せ?」
「幸せだよ」
幸せだ。そう即答できる。
「シンが私を抱いて、幸せだと感じてくれているのと同じように、きっと私はシンを殺した時に最高の幸せを感じられるのだと思う」
彼女は数秒の間をあけて、
「だから、これ以上、傍にはいられない」
と付け足した。
人間の三大欲求と言われている性欲の代わりだ。最愛の人を手に掛けた時、相応の幸福感を味わう事が出来るのは容易に想像が出来た。
僕は彼女に殺されても構わないと思い始めていた。それで彼女が幸せを感じられるのならば、僕が彼女に出来る事は殺される事くらいなのかもしれない。だけど、殺人欲意外でも幸福を分かち合う事が出来るのではないだろうか。
「君は僕と一軒家を建てて、耳が垂れて太ったウサギを飼うんだ。そこには僕らが居て、二人の子供がウサギとじゃれ合っている。僕らはその姿を見て幸せだね、って笑う。
休みの日には、たまには動物園や遊園地に行く。子供がイルカを見たがって渋々見に行く。帰りにコロッケを四つ買う。そこで僕は君と子供たちに言うんだ。熱いからベロ気をつけてって。でも誰もそんな忠告を聞かない。僕以外はベロを出して熱い、と言う。そして僕らは皆で笑うんだ」
「だめよ、一緒に居られない」
泣きじゃくりながら首を横に振るユウを強く抱きしめた。そして唇が触れ合うくらいの距離でもう一度言う。
「僕は君と一緒にいる」
僕の意志は固まっていた。あれほど悩んでいたのが嘘のように。ユウに何を言われても覆る事はないだろう。
触れた唇は、やがて舌と舌が絡み合い、お互いを強く求めた。ユウはもう、何も言わなかった。
安物のシングルベッドは狭くて、スプリングが激しく軋む。早く良いダブルに買い換えよう、なんて頭の片隅で考えながらも、この軋む音は嫌いじゃなかった。
「ユウ、僕は、」
僕が言おうとした言葉は唇で塞がれてしまい声にならなかった。
僕の腕の中にはユウが居て、僕を見つめる顔が愛しくて、本能に逆らえない僕を誰かは笑うだろうか。
僕はユウを目一杯抱きしめ、そして訊ねた。
「どうして、人を殺してしまうの?」
「どうしてだろう、関係がないからかな? あなたが何気なく仕事を終えて、疲れて帰って、なんとなく知らない人のアダルトビデオを見てオナニーするのと同じように、私はなんとなく人を殺すんだと思う」
僕は「そうか」とだけ、返事をして顔と顔がくっつくように、密着するように、もう一度強く抱きしめた。
「僕は君に殺されたい」
ユウの涙が僕の頬を伝う。少しだけ温かかった。
そしてユウはようやく微笑んでくれた。
約束は叶わないかもしれない。
『パラダイム・ロスト』了――
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