蝉の喝采 最終回 / 深水千世

 甲斐先生と会うのは、いつも金曜日の夜七時だ。時計の針はもうすぐ七時になる。きっと、彼から連絡がくるのはもうすぐだろう。私はベッドに腰を下ろし、手元の携帯電話をじっと見つめていた。

 一分一秒が長く感じる。十五分ほど過ぎたとき、はたと拓也の言葉を思い出した。自分から足を踏み出そうと決めたばかりじゃないか。

 思い切って、画面を押す。呼び出し音の後、甲斐先生の「もしもし」という声がした。あんなに恋焦がれていた声なのに、今は聞くのが怖かった。

「ごめん、そろそろ電話かけようと思ってたんだ。梢から電話してくれるの、初めてだな」

「うん、そうだね」

 電話一本にしても、こうやってすべて甲斐先生に委ねて一喜一憂してきただけだったんだと痛感する。

「梢とゆっくり話をしたかったんだ」

 私のことを名前で呼んだことで、周囲に誰もいないのだろうと察する。二人きりのときにだけ帯びる、甘い声の余韻がする。

「引っ越すって言っていたけど、どうなったの?」

「うん、やっとアパートが見つかったよ」

「お子さんは?」

「妻と一緒にいる」

「どうして別居なんて。私のせい?」

「多分、それもあるけど、それだけじゃない。彼女の中でもうとっくに限界だったんだ。それだけだよ」

 何も言えずにいると、彼がおずおずと尋ねた。

「どう思った?」

「どうって?」

「俺ともっと一緒にいられると思ってくれた? それとも、潮時だと思った?」

「びっくりした。先生は離婚するとは思ってないから」

「どうして?」

「先生、自分で気づいてないでしょう? 先生って、結婚指輪をなぞる癖があるの。そういうとき、すごく寂しそうな顔してる」

 今度は彼が言葉を失った。

「別居のことで忙しいから、ここのところずっと会えなかったのかなと思った。それとも、他にいい人ができたのかな、とか」

「いや、学会とか飲み会とか続いただけだよ。ちゃんと説明したでしょ。梢こそ、他に好きな人できた?」

「は? どうして?」

「金曜日会えないって連絡しても、前より残念がってない感じがしてた」

「嘘、変わってないよ。もしそうだとしたら、もう先生は会うつもりないのかもって諦めかけてたから……」

 そう言いかけて、口をつぐんだ。それだけじゃない。土曜日には拓也との約束という救いがあったからだ。思った以上に、拓也は私の支えになってくれていたのだと気づいた。

「会いたかったよ。でも、なんだか距離を感じて寂しかったんだ。それはわかってよ」

 だから、看護師長を抱いたの? 

 声にならなかった。知りたくなかった。認めたくなかった。でも、私は変わりたいんだ。先生が「もしもし?」と繰り返しているのを聞きながら、深呼吸をする。やがて、かすれた声でこう言った。

「夜の九時に、医局の先生の研究室から看護師長が出てくるのを見たの」

 息を呑む音が聞こえた。沈黙が答えだった。私は「透、愛してたよ」と、初めて名前で呼んだ。

「本当はあなたからも愛してるって言ってほしかった。だって、惨めじゃない。道化になりたくない。そうだとしても認めたくない。私を好いてくれた証が欲しい。でも、それは余計に私を縛る。私が私じゃいられなくなる。だから、もういい」

「君は、僕がいなくても平気? 僕は寂しいよ」

「私もあなたが寂しがるように、寂しい。けれど私の寂しさはあなたで埋められれものじゃなかったし、あなたもきっと同じなんだわ」

「梢はもう何か見つけたんだね」

「多分。答えを知るのはずっと先だと思うけど」

「わかったよ。でも、これだけはわかって。君といたいと思ったのは本心だから」

「私も。でも、あなたにすがりつく明日は見えるのに、十年先の二人が見えないの」

 それが最後の会話になった。私は電話を切り、ぼたぼた落ちる涙を必死に拭った。

 惨めじゃない。道化じゃない。私は彼を愛していたし、彼もそういうときはあったと思いこんだもん勝ちだ。自分に優しい嘘をついてしまいこんでしまえ。そう自分で自分に叱咤した。

 涙を呑み込むと、私は拓也に電話をした。

「もしもし」

 いつもの穏やかな声に張りつめていたものが緩む。

「拓也、お願いがあるの。やっぱり、肴だけじゃなく、料理の基本から教えてもらえるかな? 毎日のご飯を自分でちゃんと作れるようになりたいの」

「いいけど、どうして?」

「食は人を作るんでしょ? 誰かと一緒に生きていくには、まず一人で地に足つけて生きていかないとさ」

「うん、わかったよ」

「ありがとう」

「梢、変わったけど、変わってないよ」

「変わってないって、どこが?」

「何事にもひたむきなところ。そこは変わらないでいろよな」

 拓也は電話の向こうでほほ笑んでいたと思う。

 私が本格的に料理教室に通いだし、二か月がたっていた。月に一度にはなったが、『ギブ・アンド・テイク』も続いていた。

八月の熱帯夜、拓也が保存瓶を持ってにやりとした。

「梢、そろそろ梅酒が飲めるぞ」

「やった! 楽しみ」

 保存瓶のふたを開けると、ラム酒の香りが鼻をついた。拓也がグラスに少量注いでくれ、ゆっくりと口をつけた。まだ熟していない梅酒は少しとがっていて、でも甘い。

「飲めるは飲めるけど、まだまだだな」

 眉を下げながらも拓也はどこか楽しげな顔だった。私は無言でうなずいた。そう、まだまだだ。きっと梅酒も私もまだまだ熟していけるはず。

 

 

 翌日、私は弓道場で的と対峙していた。

 足を踏み定め、胴造り、弓構えと動きを進める。

 ゆっくり打ち起こしたあたりから、周りの音が消え失せた。引分け、会でじっくり伸合いながら、自分の腕が弓と繋がった気がする。力の流れが美しく整ったのを悟り、離す。

 弓を倒し、足を閉じて初めて息がつけた。

 矢は、的に中っていた。

 蝉の声が戻ってくる。それはまるで沸き起こる喝采のようだった。

 

 
次作に続く

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