蝉の喝采 第六回 / 深水千世

 拓也はすぐにアパートまで迎えに来てくれた。

「梢、どうした?」

 驚き、心配している拓也の前で私は子どものように泣きじゃくりながら、甲斐先生とのことを話し出した。

 彼は相槌を打ちながら耳を傾けていたが、ひとしきり話が終わると、にっこり微笑み、こう言った。

「とりあえず、そいつぶっ飛ばしにいく?」

「何を言ってんの」

 呆けたあとで、思わず噴き出した。拓也がぽんと私の頭に手を置く。

「その様子だと、ろくに食べてないだろう? うちにおいで。あったかいもの作ってやる。人間、お腹がすいてるのが一番ダメなんだ。体が資本って本当だからな」

 静かな声が降ってくる。私は大人しくうなずき、彼の車でゆずのき屋敷へ向かった。

「ごめんね。迷惑かけて」

 運転しながら、彼は言う。

「いいさ。誰だって気持ちを手離したくなるときはあるだろうし」

 ゆずのき屋敷に着くと、彼は手早く鍋焼きうどんを作ってくれた。だしの旨味が空っぽの胃にしみいる。鼻をすすりながらうどんを手繰る私に、彼は笑ってティッシュを手渡してくれた。

 食べ終わると、彼はキッチンから青梅がたくさん入ったざるを運んできた。

「さて、腹もふくれただろうから、梅酒の仕込みするよ」

「え、梅酒? 今から?」

「梢の電話で中断したんだから、手伝ってくれよ」

「あ、はい、すみません」

 ぽん、と拓也の手が私の背中を軽く叩く。うっかりまた泣きそうになるのをこらえる。

「青梅のへたを竹串でとってくれる? 傷つけないようにそっとね」

 私たちはテーブルで向かい合い、竹串を手にした。

「梅シロップと、梅酒にするんだ。梅酒はホワイトリカーとラム酒で作るつもり」

「いいね」

「梢は甘いのが好き?」

「うん」

「じゃあ、氷砂糖は多めにしよう」

 綺麗に拭いてへたを取った青梅と、氷砂糖を交互に保存瓶の中に詰めていく。

「あのさ、梢がその先生とどうなりたいのか知らないけどさ」

 氷砂糖を持つ手を止めて、拓也を見た。彼は青梅を手の中で転がし、こう続ける。

「梢は変わりたいって言ってたよな。それなら変わった自分を思い描くといいよ。努力や行動は方向性を間違えたら裏切るからね。あとは人の縁や運が背中を押してくれる」

「本当、ごめんね。こんないい歳して何やってるんだろうね。どこに向かっていけばいいのかもわからなくなってきたよ」

 うつむいた私に、彼はこう答えた。

「いいんだよ。迷っても。誰だって、迷える存在なんだ」

 その声は噛み締めるような響きを持っていた。ラム酒を注いだあと、拓也は笑う。

「先生も好き勝手やってんだろう? じゃあ、梢も変に気を遣ってないで、訊きたいこと訊いて、会いたいなら会いたいって言えばいいじゃん。許せないなら許せないって先生の前で泣いてやればいいんじゃないの?」

「それができたら、とっくにやってるよ。けど、そうできるのって奥さんだけじゃない」

「不倫だからって、なんで男に全部の手綱を任せちゃうわけ? 不義理なことしてんのに、今更そんなところに義理立てしても梢一人が潰れるだけでしょ。梢って、昔からそういうところあるよな」

「へ? なにそれ」

「家庭クラブも籍だけ置いてくれればいいって話だったのに、ちゃんと弓道部の練習時間削ってまで顔出してくれたしさ。勇司と『梢は変に義理堅いよな』って話してたんだ。あの頃、無理してなかった?」

「うん、そうだね。最初は、かけもち辛かった。でも、そのうち弓道部より家庭クラブのほうが楽しくなったよ。だって、家庭クラブが好きだったから」

 そう、最初は気晴らしと内申点狙いで、熱心に活動するつもりはなかった。けれど、拓也たちと過ごす時間が楽しくて、いつしかしょっちゅう顔を出すようになった。弓道では感じたことがなかった、ありのままの自分でいられる時間があったからだ。

 拓也が「それだよ、それ」と白い歯を見せる。

「自分のしたいこととか好きなことに素直になったらいいんじゃないの? 地に足つけていれば、お天道様は身の丈にあった道を照らしてくれると思うよ」

 拓也はその後、私をアパートまで送ってくれた。もう少しで着くという頃、携帯電話にメールが届いた。甲斐先生からだ。『金曜日、電話しよう』という文字が画面に浮かんでいた。

 別れ際、拓也が言う。

「愛してるってさ、なかなか言えない人もいるんだよ。俺の親父なんか、愛情があったかなんてわかりゃしなかった。でもさ、唯一描いた人物画が、料理をする俺だったんだ」

 遠くを見るような目だった。

「そのとき、初めて愛されているのかもしれないと気づいた。愛するのも愛されるのも、思いこんだもん勝ちだなって。だったら、バカみたいでも、その気になってしまったほうが幸せだと思った」

「思いこんだもん勝ちかぁ」

「うまくいっても、いかなくても、あったかいご飯と梅酒が待ってるからさ。どんといってこい」

 涙がこぼれた。けれどそれは、それまでのものとは違う、じんわりと滲み、あたたかい涙だった。

 

次回の更新は2020年12月7日になります。

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