パラダイム・ロスト 第二回 / 大友 青
「どうしたんすか? 珍しい」
第三者の声が僕を現実に引き戻してくれたようだ。声の主は、同僚の相葉菜穂であった。僕はオフィスの自席に座り、キーボードに手を伸ばしたまま、眠ってしまっていたらしい。休憩室に行ってから眠ったと思っていたが、それも含めて夢であったようだ。
「……うん、悪い。ありがとう」
夢から引き戻してくれた相葉に礼を言うと、彼女は小首を傾げながら「変なの」と呟いた。
ふぅー、と呼吸を整えてディスプレイに視線を向ける。
『解析エラー:107』
どこまでが現実で、どこからが夢なのか。
僕にはその区別がつかなくなっていた。
相葉が僕のプログラムを覗き込み、何か小言を言っているようだが、その言葉は僕の耳には届かなかった。
「聞いてないし……ちょっと休みとった方がいいっすよ、プログラマーは短命なんすから」
「あぁ、今何時?」
「一九時過ぎたとこっす」
――一九時か、それなら帰ってもお咎めは受けない……な。
僕は部長を一瞥する。何やら難しい顔でパソコンとにらめっこしていた。これ以上残っていては難題なとばっちりを受けてしまいそうだ。そうなれば終電でも帰宅できるか怪しい仕事になるだろう。
「……帰るわ」
僕の代わりにそのとばっちりを受ける事になるであろう相葉には悪いと思うが、ランチをご馳走すれば機嫌は取れるだろう。
「ゆっくり風呂にでも浸かって休むっすよ。血流よくしてくださいっす」
肩をぐりぐり回しながら言う相葉に愛想笑いを返し、僕はまだ中身が入っている缶コーヒーと通勤鞄を持つと無言のままオフィスを後にした。
頭痛は先ほどよりは緩和しているが、前頭部がズキズキ痛む。堪えきれない程ではないが、電車で帰るのは少し気が引けてしまい、駅前でタクシーを拾う事にした。
「お客さん、お疲れの様子ですねぇ、お仕事何をされてるんです? あ、待って! 当てます、当てますから。そうですねぇ……お医者さんとか? タハー。お医者さんな訳ないですよねぇ、ここいらはオフィスビルしかありませんものねぇ、まぁ、コンピューター関係でしょうねぇ、どうせぇ。いやいや、コンピューター関係を侮辱してるわけじゃないんですよ、私はコンピューターって何もわからないんで、それだけで尊敬してますよ、私は運転しかできないんです、へへ」
「ちょっと黙ってもらえませんか、頭痛が酷くて」
僕がそうお願いしたにも関わらず、運転手はお構いなしと一人で話を続けた。それは一人漫談のようにも思える盛大な独り言であった。よくもまあこれだけ一人で話が出来たものだ。素直に電車で帰っていれば良かった、と後悔するも後の祭りである。
なんだかこの人に家がバレると危険な気がして、歩いて五分ほどの距離で下ろしてもらう事にした。
「え、この辺って暗くて何もないじゃないですか、お客さん頭痛いんだから家まで乗せてきますよぉ、料金は止めてサービスにしときますよ、私も人の子ですからぁ」
――このおっさん、まじ空気読んでくれよ……。
僕のささやかな抵抗も虚しく、タクシーは家の前まで到着し、代金三千二百円をお釣りがないように支払うとタクシーは何事も無かったかのように去っていった。
部屋の鍵を開けようと鞄をまさぐっていると、プッ、という車のクラクションに両肩が跳ね上がった。視線を向けると先ほどのタクシーであった。先の道でUターンしてきたのだろう。
――よくあれで商売出来ているな、クレームとか来ないのかな。
最後の最後まで空気が読めない運転手に、苛立ちを通り越して心配の感情がこみ上げてくる。きっと彼にも家族など大切な人が誰かしらいるだろう。それらを守るためにも、誰か優しい人がクレームではなく、諭してあげてほしいものだ、と余計なお世話で、且つ、人任せな考えが過ぎった。
部屋に入ると明かりもつけずにベッドに倒れ込む。カーテンの隙間から街灯の光が仄暗く部屋を照らしている。この明るさが今の僕には丁度良かった。
第三回に続く(2019年3月18日公開予定)
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