パラダイム・ロスト 第六回 / 大友 青
会社からほど近い飲み屋街に、課のメンバーがよく通う店があった。晴れの日しか営業していない少し変わった小さな店だ。なんでも雨の日は眠たくなるから、と言うよくわからない理由らしい。四人掛けのテーブル席が三つ。カウンター席が五つしかない、声のよく通る店だった。僕たちは空いているテーブル席に広々と対面して腰掛けた。
「おっちゃん、生ビールとウーロン茶ね」
二日何も食べていない、と相葉にポロっとこぼしたのが運の尽きだった。ほぼ無理矢理にここへと連れてこられ、飯を食えと言うのだ。
いい気分転換になるかもしれないが、内心はそれどころでもない焦りがある。
「先輩、なんか悩みっすか」
ユウは僕にどんな回答を望んでいるのだろうか。あの時、自首はしない、と言っていた。芯の強い女だ。僕の説得など意味がないであろう。
「聞いてます? ありゃ、聞いてないっすね。せっかく誘ってあげたのにー」
病院にも行かない、と言っていた。彼女も相当悩んで病院やカウンセリングに通っていた事もよくわかる。出会いの場が心療内科であった事がさらに肯定した。
「あ、今日の歌番組にカシューナッツが出るんだった。おっちゃんチャンネル回しまっす。私カシューナッツのコウジ君が大好きなんですよねぇ、いつも難しい顔しているのが良いっていうか、ちょっと先輩に似てますよねー」
相葉のアイドル話は無視して、思い切って聞いてみる事にした。
「彼氏が人殺しだったとしたら、君はどうする?」
相葉は含んでいたビールを少し吹き出すと、おしぼりで口元を拭う。
「なんすか、びっくりしますわ。えーっと、彼氏が人殺しだったら? 別れるに決まってますよ、だって彼氏でしょ? 何の縁もないんすよね? 結婚してたらどうかちょっとわからないっすけど、付き合っているだけなら、将来ないっしょ」
――それが普通の答えだよな、
僕だってそう思うし、誰かが僕に相談してきたら相葉と同じ事を言うだろう。だが、僕は当事者であり、実際、きっぱり別れる事ができないでいる。
カフェイン中毒、アルコール中毒、麻薬中毒ならぬ、ユウ中毒なのだ。
ユウが居なければ不安になり、また壊れてしまうだろう。そして立ち直るためには相応の努力をしなければならない。それがどれほど過酷で、生活を捨てて、自分を捨てて、耐えていかねばならないのか、想像するだけで身の毛がよだった。
「なんすか、彼女、人殺し経験ありなんすか?」
人殺し経験あり、なんてものでは済まないだろう。ユウが言っている事が真実なら、数えきれないくらい殺している。これまで捕まらずにいるのだから、もはや殺しのプロフェッショナルだ。
相葉の質問をはぐらかし、他愛もない会話をしながら、豆腐のサラダを少しだけ胃に入れた。
相葉お目当てのアイドルも出番を終え、次の番組までの繋ぎに流れるニュースが流れる。そう言えば最近ニュースを見ていなかったな、と何気なく視線を向けていると、驚くべき内容が放送された。
「××市△△町で起こった殺人事件で、被害にあったのは山形敏夫さん、八六歳。アキレス腱を切られ、動けなくなっているところをナイフのようなものでめった刺しにされた凄惨な事件は、未だ何の情報も掴めていないままです。近隣の住民の方はご注意ください」
それはユウの住んでいる町の隣町であった。ユウの言葉が脳内をリフレインする。
『私は今、死にかけのお爺さんを殺してきた』
くらりと眩暈がする。
また、気絶してしまいそうだ。
「体調が悪い、すまんが帰る」
僕はテーブルに一万円を置くと逃げるようにして店を出た。店に面している道路でタクシーを止め、自宅住所を言う。運転手は手際よくナビに設定をして車を走らせた。
昨日の運転手でなくてよかった、と心底安堵して、そのまま意識を手放した。
「お客さん、着きましたよ」
「……あ、すいません」
運転手に起こされ、窓の外を見ると間違いなく僕の住んでいるハイツの前であった。昨日の運転手なら眠る事すら許さなかったであろうに。代金を支払い、鞄の中をまさぐりながら部屋の鍵を探す、車のヘッドライトが眩しく背後から照らされたが、クラクションを鳴らされる事はなかった。
部屋に入ると、今日もベッドに倒れ込む。
――一週間、短いようで長い。地獄だ。
一週間という期間で答えを出すにはとても短い期間だと思う。しかし、一日一日がとても長く感じる。
そんな事を考えていると先ほどのニュースが脳裏を掠めた。
――ユウが言っていた事は本当だったんだ。
こんな事、出任せで一致するのはあり得ないだろう。だが、もしも帰り道でその事件の事を知っていたとしたら? そんな事も考えてしまう。
ブーッ、という来客を知らせるチャイムが鳴る。
――ユウ……?
もしもユウだとしたら、僕はどんな顔をして会えばいいのだろうか。扉を開けたら「あれは全部嘘でした」なんて言ってくれるのだろうか。
大きな不安と少しの期待。
そんな複雑な気持ちで扉を開けた。
「先輩、だいじょぶっすか? 急に帰るから心配したっす」
相葉が眉尻を垂らしながら、ぱんぱんに詰まったレジ袋を掲げる。
「食べやすそうなもの買ってきたんで」
と彼女は言った。
「どうして?」
頭が痛くてあまり深い事は考えたくなかった。出てきた言葉は短絡的なその一言だ。
「どうしてって……仕事は出来るのに疎いんすね。機械ばっか相手にしてるからじゃないっすか?」
僕にはその返事の意味がよくわからなかった。よくわからない時点で彼女が言うように僕は疎いのだろう。
正直、どうでもよかった。
「あがっていいすか? お粥つくるっす」
相葉は聞いておきながら、半ば強引に部屋に入ると僕を玄関に残したまま、キッチンへと消えていく。
構っている余裕はないのに、面倒で仕方がない。
「悪いが本気で体調悪いんだ。作ったら帰ってもらっていいかな」
「はいはい、わかってるっすよー、彼女にも怒られそうっすからね」
ユウの笑顔が瞼に焼き付いた。
「……あいつは、こないよ」
自分で言って、目頭が熱くなった。
そうだ、どれだけ助けを求めても、今回ばかりはユウは僕のところへは来ないのだ。
僕が一人で悩み、決断しなければならないから。彼女は絶対に僕のところへは来ない。
堪えきれない感情が、小さな嗚咽に変わり、カッターシャツにシミをつけていく。
相葉は何も言わず、僕の頭を抱えて、髪の毛を撫でた。
「大丈夫っすよ、怖い事なんてないんす」
初めてユウ以外の前で弱いところを見せてしまったかもしれない。大の大人が情けない姿を曝していると言うのに、相葉は優しく僕を慰めた。
それでもだらしなく、鼻をすすり、涎を垂らす僕の口を、彼女の口が塞いでくれた事に気づいたのは数分してからであった。
僕はその唇にユウを重ねていたのかもしれない。ぼんやりとした灯りの中で、その女が相葉だと認識していなかったのかもしれない。理由はよくわからなかったが、僕は目の前にいる女の熱を強く求めた。
「先輩、エッチしましょ」
その言葉になんと返事をしたかは記憶がない。なんとも都合のいい脳みそだと笑われてしまいそうだ。だが、本当に記憶がないのだ。
次に気がついた時には、僕に跨がり腰を振る裸の女が居たし、なんとなく気持ちが良かったからそのまま知らないフリをした。
それだけなのだ。
――あぁ、何かもうどうでもいい。
何に対しての言い訳なのかもわからない、僕は僕である前に男であり、人なのだ。
この期に及んで、本能には逆らえなかった。
本能には逆らえなかった。
第七回に続く(2019年3月22日公開予定)
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