パラダイム・ロスト 第七回 / 大友 青
目を覚ました時には、僕は部屋に一人だった。
――夢だったか。
と、思ったのも束の間、食卓の上には茶碗に注がれたお粥にラップがされており、おまけに置き手紙まであった。
体の中から、全ての悪意を吐き出すかのようにため息を吐いた。
置き手紙を読まずにシュレッダーにかけると、もう一度ベッドに倒れ込む。
とても出勤する気にはなれない。
しかし、通い妻みたいな事をされては面倒だ、と僕は相葉にメールを一通送る。
『もう二度と来るな』
ユウへの罪悪感で吐きそうだった。吐きそうだったのに吐けなかった。罪悪感で吐きそう、という青年を演じたかっただけだった。
相葉とのセックスという別視点の刺激を受けたせいかはわからないが、もしかして、と考えた一つの答えが僕の中で根拠のない空想を結論づけた。
「僕を騙しているんだろう? 君は人なんか殺していないんじゃないのか?」
僕はすぐにユウに電話をした。ユウは二コール目で電話に出た。ユウの声はいつも通り、とても落ち着いていた。
「仮にそうだとして、私にメリットが何一つない。私はあなたを愛しているから全てを打ち明けた。あなたを試しているのは確かよ? 本当の私を知って、それでも私を愛する事が出来るのか、ね」
彼女は僕を違う意味で試していた。
「僕には答えが出せない」
「期限は一週間。お願い、これはあなたが自分で出すしかない答えなの」
ユウの言っている事はわからなかった。
「そこに君の意志はないのか? 僕が出す答えだとしても君の意志を知り、理解した上で出す答えはあるだろう」
頭が痛い。
「……私が世間からみて異常者だと言う事はわかっているって言ったでしょ、だから正常なあなたが一人で答えを出すの。私はどちらの答えでも受け入れるつもり」
警察には自首しない、というユウ。この場合のどちら、というのは、【別れる】か【別れない】かのニ択を迫られているのだろう。
そして彼女は限りなく前者を望んでいるように思えた。声は気丈に振る舞っているが、彼女は僕を想って別れるつもりなのだ。
そして不安定な僕の精神を、彼女はさらに追い込んで来た。
「世間は私を快楽殺人鬼と呼ぶかもしれないけれど、私には私の美学がある。あなたがナースと患者シチュエーションプレイが好きなように、私にも私を駆り立てるシチュエーションがある」
僕はそこで電話を切った。
部屋に響いて鼓膜に届いたのは、叫びのような、泣き声だった。
普通の女の子であったユウが、恐怖の対象に変わっていくのが怖かった。
はたして、ユウが言うように僕は“正常”なのだろうか。
『来るなって言われたら行きたくなるのが乙女っすよ』
そんなメールが返ってきたから、僕は部屋を出た。財布と家の鍵、携帯電話だけを持ち、ふらふらと行く宛もなく。
なんとなく電車に乗った。会社とは逆方向の電車だったから、感覚的に景色が体に馴染まない。だが、この景色は何度か見た事があった。
ユウと初めて動物園にデートに行った時も、この景色を見たのだ。
なんとなく、僕の体は動物園に向かっていた。
なんとなくゾウを見て、ペンギンを見たがイルカは見なかった。
『ねぇ、シンはどの動物が一番好き?』
『ウサギかな』
『なんで?』
『太った体で耳が垂れてるやつ、なんかすげぇ可愛くない?』
『じゃあ、一軒家を建てたらウサギを飼おうよ』
僕もその気になって、ユウと指切りしたのを覚えている。
だけど、その約束は叶わないかもしれない。
動物園を出た僕は、近くの交番の前に居た。
ここで何を話そうと思っていたのだろうか。
ユウを通報しようとしていたのだろう。
「何かお困りですか?」
気の優しそうな恰幅の良い警察官が、僕にそう声をかけてきた。
――何かお困りですか? だと?
「ええ、困ってます。助けてくださいよ、ねぇ、警察官は困った人の味方なんでしょ!? 助けてくださいよ! 僕はどうすればいいんですか! ねぇ!」
僕は警察官にすがりついていた。警察官は困った様子で、落ち着いて、なんて言葉を繰り返していた。僕に絡まれて困っている警察官を助けてくれる警察官が来てくれたらいいのに、なんて思った。
またふらふらと町を歩いた。
小さな町だ。商店街は寂れていて、ほとんどの店がシャッターを下ろしている。
肉屋が開いていたのでコロッケを二つ買った。
買った後で気がついたが、ついつい癖で二つ買ってしまっていた。
『ほら、熱いからベロ気をつけろよ』
『わかってるよ、あつっ、本当に熱いじゃん!』
買ったものの持っているのが面倒だったから、コロッケに口を付けずに自動販売機の横に置いてあった缶・瓶専用のゴミ箱に二つとも捨てた。
捨てた後で、食べてしまえば両手が空いた事に気がついた。
ふらふらふらふら
何を考えてさまよっていたのかわからない。何も考えていなかっただろう。考える事を放棄していたのだと思う。
それでも体は何かを求めていたようで、目の前には五年前から通っている心療内科があった。
「新井さん、今日はどうしたの? まだ薬あるでしょ? 先生が恋しくなったとか?」
中に入ると僕を見つけた先生がそんな冗談を言って笑った。
「今日はカウンセリングじゃなくて、ちょっとここに居てもいいですか」
僕は待合いのいつもの席に腰掛けて、先生にそうお願いしてみた。
訳ありの様子を察してくれたのか、先生は二つ返事で許可してくれた。他の患者さんもたまたま居なくて空いていたからだろう。
ここに来る時は、いつも隣にユウが居るのに、今日は居ない。それがとても寂しくて、太陽を失った月になってしまったようだった。
ユウと別れて別の人生を歩むという事は、決断としてはとても簡単な事なのだろう。僕のユウ依存を治療する人生が待っていたとしても、だ。
だが、【ユウ】という存在は僕にとって、空気や水と同じようなものであり、僕は彼女が居なければ、仕事復帰も出来ていないだろうし、どこかで野垂れ死んでいただろう。
僕はユウを愛しているのだろうか。
それとも、ユウを神のように崇めているだけなのだろうか。
いつもユウが座る席を避けて、先生が僕の逆隣に腰掛けた。
「優子ちゃんと喧嘩したの?」
「喧嘩ならいい方ですよ」
僕は力なく答えた。
「顔に『悩んでます』って書いてるよ。そっか、うん、ちょっと診察室に来てくれる?」
先生は何か知っているのか、意味深な態度で僕を診察室に誘った。
先生の話は、やはりユウの事だった。
「優子ちゃんがこの間来てね、」
ユウのカウンセリングを先日行ったそうだ。僕の居ない日に。
そこで大きな悩みを抱えている事がわかった。それは僕に真実を隠している事だった。
先生はユウにアドバイスした。
『今の新井くんなら受け止めてくれる』
大変なアドバイスをしてくれたものだ、と先生を睨んだ。
「ごめんなさい、あなたの今の状況を見ると、優子ちゃんが何かを打ち明けたのよね、それをあなたはどうすればいいかわからなくなってしまった。ごめんなさい」
非常に迷惑だ。しかし、ユウが先生に話をしにこなければ、先生がユウにアドバイスしなければ、僕はユウの隠し事を知る事はなかった。それが幸せな事なのか、不幸な事なのかはわからない。
「先生はお仕事ですから、しょうがないですよ。心の弱い、僕らが、いや、僕が悪いんです」
正直なところ、僕の心の弱さは関係ないと思っている。どんな心の強い人でも、私は人殺しなの、などと告白されたら同じ事になるのではないだろうか。
でも、わかった事がある。
そして、僕の中ですっきりと答えが出てしまった。それはこれまでの辛さが驚くほどに、すとん、と僕の中に収まった。
「ユウが、先生に相談したってことは、彼女が本当に悩んで、どうすれば良いかわからなくなって、の、事だと思います。僕はその事実は受け入れようと思います」
心優しいユウが、僕にこのような真実を告げて、正気で居られるはずがないのだ。
なぜ、僕はそれに気がついてやれなかったのだろうか。彼女は僕に話をしてくれた時も、被害者を気遣っていたのだ。それが何の意味もなさないのはわかっている。でも、彼女はそういう特異体質に生まれてしまったのだ。僕は僕の中の常識だけで考え、悩んでいた事がわかった。
本能には逆らえなかった。
そういう意味では、彼女も被害者であり、これまでに僕が考えられないくらい悩んだはずなのだ。真実を告げられた僕が悩んで、辛くなったのなんてちっぽけなくらい、これまでにたくさん悩んだはずなのだ。
僕はそんなユウに救ってもらった。
僕は五年前、一度死んでいたのだ。
僕の命はユウの掌の上にあった。
僕はいつも自分の事ばかりで、ユウの事を考えてあげられていなかった。
ユウはいつも笑顔だった。
これほどまでに辛い現実を受け入れていると言うのに、笑顔だった。
僕がユウに救われたように、知らず知らずのうちに、僕もユウを救ってあげられていたのかもしれない。
悩む、という事は、初めから答えが出ていたのだ。
僕はユウを警察に引き渡す事も、別れて知らないふりをして生きていく事も出来ないのだと言う答えが。
あの日、ユウは黄色いヒヨコの合羽を着て帰ってきた。雨でもないのに。人を殺してそんな目立つ事はきっとしないだろう。
あの日、僕が部屋にいる事をユウは気がついていたのだ。だから、部屋の前で脱いでいた合羽を着て、部屋の扉を開けた。
僕に真実を告げるために。
やはり僕は、ユウが言うように”正常”ではないらしい。
最終回に続く(2019年3月23日公開予定)
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