蝉の喝采 第一回 / 深水千世
弓道場は貸し切り状態だった。しんと静まり返ったなか、的を見つめ、ゆっくりと打ち起こす。矢を水平に保つよう慎重に引分け、思い切って手を離した。弓を倒しながら、ため息が漏れ出そうなのを必死にこらえる。
矢は一度も的に中らなかった。今日だけではない。ここのところ、矢所が定まらない。なにもかもパッとしない。
鬱屈した気分で弓道場を出ると、携帯電話が鳴った。画面に『甲斐先生』という文字が見えた瞬間、一気に浮足立つ。
「もしもし、梢?」
電話の向こうで彼の声が響く。どうやら狭い部屋にこもっているらしい。
「先生、仕事終わったんですか?」
嬉々として訊ねたが、彼は「ああ」という低い声だった。
「今日はこれから病棟の看護師と飲み会に行くことになったんだ。ごめん、今夜は連絡できない」
「そう」
落胆を押し隠し、「わかった」と平静を装う。
「気を付けていってきてね」
「本当にごめん。また来週」
電話が切れ、小さくため息を漏らした。
先週は医局の飲み会で会えなかった。今夜こそはと期待していたのに、と寂しさが押し寄せる。
けれど、恨み言はなしだ。だって、いくら愛していても、何度体を重ねていても、恋人ではない。愛人なのだ。彼は妻子ある身で、人命をあずかる医師である以上、家族と仕事には勝てない。それがわかっているから、いつも物分かりがいい女を演じている。彼が勤める病院の総務課にいる私は、うっかりボロが出ないように、二人で会っているときも『透』と名前で呼ぶことはない。
コンビニで晩御飯とビールを調達し、アパートへ戻る。我ながら生活感のない部屋だ。台所はほとんど使わず綺麗なままで、それが一層、無機質な空気を醸し出していた。
テーブルの上に買い物袋を置き、携帯電話を睨む。今頃、彼は看護師たちと合流しているだろうか。飲み会が終わったあと、誰かと二人きりで過ごすかもしれない。じわりと嫉妬がこみ上げる。同時に、彼を信じていない自分が悲しくなった。現に私との関係をもっている以上、彼が他の人に手を出さない保証はない。愛人の私は責められる立場ではないけれど。
「明日はせっかく休みなのに、独りぼっちか」
一人暮らしも長くなると、どうしても独り言が増える。
ビールの一口目を味わい、コンビニのパスタを一気にたいらげた。コンビニご飯もなかなか美味しくて侮れないのだが、空になったトレイや破れたスプーンの袋が散らばっているのを見ると、どうしてもジャンクな生活だなとしゅんとしてしまう。
煙草に火をつけ、この時間が独り身の気楽さでもあり、三十九歳になっても地に足がついていないような心もとなさでもあると、鼻をすすった。だが、いつまでこんな生活をするのだろう。気が付けば周りの同世代はほとんどの人が結婚し、子どもを持ち、家庭を築いている。かたや私は家賃と食費のために働き、学生時代からの趣味である弓道はうまくいかず、愛人として誠意のない男にとらわれている。
「我ながら不毛だなぁ」
そのとき、携帯電話にメールが届いた。一瞬、期待で胸が膨らむ。だが、表示されたのは『勇司』という中学の同級生の名前だった。
『お久しぶり。中学のとき家庭クラブだったメンバーに連絡してます。拓也が七時から三チャンネルの料理番組に出演するので観てあげて。それから、春に拓也が東京から桐生市に帰ってきます。料理教室をこっちに移転するそうなんで、興味ある人は連絡ください』
時計は七時を五分ほど過ぎたところだった。慌ててリモコンを押すと、料理番組に男性の料理研究家と女性アシスタントが映っていた。
「うわぁ、拓也だ」
テレビに映ったのは、料理研究家の富田拓也だ。中学の同級生で、彼が家庭クラブを立ち上げたとき、私と勇司はそのメンバーになった。卒業後は連絡が途絶えていたが、勇司とはやりとりがあったらしい。
「すごい、本当にテレビ出てる」
思わず感嘆の声が漏れる。拓也は昔から料理に携わる仕事をしたいと言っていたが、見事に夢を叶えたわけだ。それに比べて私はジャンクな毎日を送っている。月とスッポンだ。
私はぼんやりと画面の中の同級生を見つめる。拓也はいきいきとして見えた。あの頃のあどけなさは失せていたけれど、そのぶん頼もしくなった気がする。
最後に顔を見てから二十年はたっていたが、そんなに月日の流れを感じなかった。時折、彼のことを思い出していたからかもしれない。
拓也は東京からの転校生で、どこか浮世離れしていた。目立つタイプではなかったが、それでも独特の雰囲気があった。ほとんどの子が学校という狭い世界で生きていたのに、彼は自分の居場所を学校にこだわることがないようだった。暇さえあれば図書室に閉じこもっていた。それが一部の人にはきどっていると映ったこともあった。
彼の家庭クラブに入ったのは、弓道部での試合の結果がパッとせず、気晴らしになればいいなと思ったのがきっかけだ。内申点がよくなるかもしれないという下心もあった。
月に一度か二度、家庭科室で調理実習があり、ご飯ものからお菓子、パンまでいろんなものを作った。それが意外と楽しくて、私たちクラブのメンバーはすぐに打ち解けあったと記憶している。最初は本ばかり読んで変わった子だと思っていたけれど、話してみると拓也は気取ったところのない、気遣いのできる子だと知った。思慮深く、他の子よりも達観したものの見方をするところが、気に入った。
拓也といえば、真っ先に思い出す出来事がある。
ある日、拓也と二人で調理実習の買い出しに行くことになった。
荷物を自転車のかごにつめ、さあ、帰ろうかというときに彼の携帯電話が鳴った。誰かと話し始めた彼は「えっ」と大声を上げる。わなわなと体が震え、「そうですか」と絞り出すように言うと、しばらくして黙って電話を切る。拓也の顔が真っ青になっていた。
「ちょっと、どうしたん?」
驚いて顔をのぞきこんだ途端、ぎょっとした。いきなり嗚咽し始めたのだ。
「ねえ、何かあったん? とりあえず、ちょっと座ろうよ、ね?」
むせび泣く拓也を店の入り口にあるベンチに座らせる。『何事だ?』とじろじろ見てくる人々の視線が痛い。拓也はしばらく動けず、私はどうしていいかわからないまま隣に座っていた。
しばらくすると、拓也はティッシュで鼻をかみ、「ごめんな」と呟いた。
「びっくりさせたな」
「いいよ。それより、何かあったん?」
「うん。俺の友達がガンで亡くなったって連絡があったんだ」
「えっ、中学生でガン?」
「いや、その人、もういい歳したおじいちゃんなんだ。覚悟はしてたんだけど、いざとなるとキツイな」
そう言うと、彼は上目遣いで私を見た。
「あの、俺が泣いたってこと、みんなに内緒にしててな」
少しはにかむ彼の顔は、どう見ても無理していた。でも、哀しみをこらえてほほ笑む顔が、大人びて見えてどきりとした。
その後、書道をたしなんでいた私に、彼は香典に名前を書いてくれと頼んできた。
「今日、お通夜なんだけど、俺、字が汚いからさ。頼むよ」
そう言う彼はスーパーでの取り乱した姿など想像もできないほど、落ち着き払っていた。別れの覚悟をしたことのない私には、彼が一歩先に大人への道を進んだように見えて仕方なかった。
家に帰り、新聞のお悔やみ欄を見る。この日、この地域で通夜があったのは『根子』という変わった苗字の男だけだった。
それっきり、そのことについて話すことはなかった。もちろん、みんなに内緒にする約束だったためでもあるが、決して触れてはいけないような気がしたのだ。根子という人物と拓也がどういう関係かは知らないけれど、これはそのままにしておくのがいい。子どもながらにそう思えた。
大人になり、どんなに辛くて悲しいことがあっても、笑うしかないときが何度もあった。そのたびに、脳裏に浮かぶのは拓也の『内緒にしててな』というはにかんだ顔だった。ああ、彼もあのとき、痛みを抱えて立ち上がろうとしていたのだと思うのだ。
拓也はまっすぐな男だった。料理人になるのが夢だと語っていた彼は、いつも図書館で英語のレシピを読めるようになりたいと英語の勉強をし、あらゆる料理本を読み漁っていた。
そんな姿を知っているから、今こうしてテレビに出演し、活躍していても驚かない。
ただ、せっかく東京で成功しているのに、なぜこの地に戻って料理教室を開こうというのか解せなかった。彼は中学と高校時代を群馬県で過ごしたが、生まれは東京のはずだ。桐生市から出たことのない私には東京のほうがいいんじゃないかと思うのだが。
「料理教室かぁ」
ぽつりと呟く。今はほとんど料理をしていない。でも、家庭クラブでの調理実習はみんなで和気あいあいとして楽しかった。あんな時間を持てたら、今の殺伐とした私の暮らしも何かが変わったりしないだろうか。
酒に酔っていたせいだろうか。いや、もしかしたら孤独に耐えかねていたのかもしれない。勇司に『拓也の料理教室、どこにできるの? 通ってみたいから拓也に伝えといて』とメールをしたのだった。
勇司から拓也の連絡先を教えてもらい、メールのやりとりをしたのは三日後のことだった。
次回の更新は2020年12月2日となります。
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