蝉の喝采 第二回 / 深水千世

 

 

 拓也の料理教室がオープンしたのはそれから一か月後の春先だった。

 土曜日の午前十時が彼と会う約束の時間だ。私は拓也の実家に向かった。桐生市のはずれにあり、私の実家から歩いて十分ほどの距離だ。

 彼の家は広い庭つきの南欧風の一軒家だった。私が中学生だった頃は古めかしい日本家屋だったがリフォームしたらしい。門には『富田拓也料理教室』という真新しい看板が掲げられている。

庭の敷石を歩く。庭には花はなく、ただ所せましと果樹がたくさん植えられていた。園芸に疎い私でも、ほとんどがゆずだと知っていた。収穫期にたわわに実る庭木のせいか、昔からこの家は『ゆずのき屋敷』という通り名で呼ばれていたからだ。

インターホンを押すと、「はい」と懐かしい声がしてドアが開いた。

「久しぶり。よく来たね」

 顔を見た瞬間、当たり前のことだが『拓也だ』と嬉しくなった。背丈はあの頃よりずっと大きくなり、顔つきも締まっている。けれど、にこやかな笑顔だけはあの頃のままだ。

「料理教室に興味を持ってくれて嬉しいよ」

 彼はリビングに私を通し、手際よく紅茶をいれながら笑った。

「どうして桐生市に戻ってきたの? 東京のほうが生徒さんもわんさか来るでしょうに」

「ああ、実は俺の親父が去年死んだんだ。それでこの家を相続したんで、思い切って改築して住むことにしたのさ」

「ごめんなさい、知らなくて……。お悔やみ申し上げます」

 慌ててお辞儀をすると、彼は「ありがとう」と紅茶を差し出し、真向かいに腰を下ろす。白い湯気が窓からの日差しに躍る。

「東京での暮らしは忙しすぎて、体を壊しそうだったんだよ。ちょうどよかったのかもしれない」

「そうだったの」

「東京でメディア出演の仕事があるときは特急で行けばいいし、それ以外の仕事はこっちでのんびりしていくつもり」

「それ以外の仕事って?」

「料理教室とかレシピ本の執筆とかね。少し仕事にメリハリをつけようと思ってたところ。まぁ、庭木の手入れで結局忙しくなりそうだけど」

「すごくたくさんあるのね」

「全部、柑橘類なんだ。うちの親父が昔から好きだったんだな。親父は日本画家だったからさ、晩年は柑橘類ばかり描いていたよ。せっかくここまで育ったものを引っこ抜くのもしのびないだろ」

 そう話す彼が、眩しく見えて羨ましかった。自分の夢を叶え、丁寧な暮らしを送ろうとしている姿は、私と対極なものだった。ただ食べるためだけに残業が当たり前に働き、不純な恋をするジャンクな自分が恥ずかしくなる。

 下を向いた私は、足元に置いたバッグを思い出した。中から細長い包みを取り出し、拓也に手渡す。

「これ、料理教室オープンのお祝い」

「えっ、開けていい?」

 贈ったのは飲みやすいと評判の赤ワインだった。

「ありがとう! さすが水川酒店の娘らしいセレクトだね」

 私の実家が酒屋だと覚えていてくれたことに嬉しくなり、思わず声を上げて笑った。

「拓也がお酒を飲むかわからないけど、ワインなら料理にも使えるかなって」

「嬉しいよ。俺、下戸だけど酒好きなんだ。今いろんな酒を勉強したいと思ってて。ウイスキーとかビールに合う料理のレシピ本を作りたくてさ」

「あ、それ嬉しい。ウイスキーもビールも好き。私、毎日飲むから、お酒に合う料理ができたらいいな」

「肴は自分で作ってるの?」

「ううん、全然してない。いつも外食かコンビニよ」

「家庭クラブだったのに」

 けらけら笑う拓也に、私は口を尖らせた。

「毎日残業なんだもん、作るのも億劫で。でも、料理するのが楽しくなったら、少しは私の生活も変わるかなって。だからここに来たんじゃない」

 彼は「そうか」と微笑む。

「そのことなんだけど、梢に一つ提案があるんだ」

「なに?」

「せっかく料理教室に来てくれたのは嬉しいんだけど、まだ人数もそれほど集まってないし、それに家庭クラブで協力してくれた梢から月謝をとるわけにいかないよ」

「えっ、でも」

「うん。だから、ギブ・アンド・テイクでいかないか?」

「どういうこと?」

「月に二回くらい、一緒に飲もう」

「は?」

「梢は俺にお酒を教えて、俺は梢に酒に合う肴をご馳走してレシピを教える。どう?」

「なにそれ、魅力的」

「だろ? お友達限定コースの料理教室ってところかな」

「面白そう。のった」

「じゃあ、とりあえず来週から始めよう」  こうして、私たちは月に二度、土曜日の夜に会うことになった。あらかじめどんな酒を飲むか決めておき、私は実家の酒屋で仕入れておく。拓也のもとへ酒を持っていくと、彼はその酒に合いそうな肴をいくつか用意しておくというもので、私たちはその会を『ギブ・アンド・テイク』と呼ぶことにしたのだった。

 

次回の更新は2020年12月3日となります。

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