蝉の喝采 第三回 / 深水千世

 週が明けると、土曜日になんの酒を持参しようか考えてばかりだった。とりあえずビールから始めようとはあらかじめ話していたものの、一口にビールといっても味も香りも銘柄によって様々だ。

 水曜日の残業を終え、帰ろうとした私はぎくりとした。廊下の向こうから白衣の甲斐先生が歩いてくる。

「お疲れ様です」

 軽く会釈をし、笑顔を繕った。本当は言いたいことはたくさんある。

『先週も飲み会で会えませんでしたよね。このところ月に一度か二度会えればいいほうですよね。私が思うように寂しいとか会いたいって思ってくれていますか?』

 いったん口にしたら歯止めがきかなくなるだろう。でもそれは終わりを意味する。だから、私は何も言えなくなる。

 甲斐先生は「お疲れ様です」と言いながらすれ違う。足を止めてもらえないのは、職場だから仕方ない。ぐっと唇を噛み締めたときだった。

「あ、水川さん」

 背中ごしに声がした。

「ちょっと訊きたいことがあったんだ」

 振り返ると、甲斐先生が戻ってくる。

「なんでしょう?」

 胸が高鳴る。甲斐先生はにこりとした。

「今度住所が変わるんで、事務的な手続きとかいるのか知りたくて」

「えっ、お引越しですか?」

「はい」

 彼はさっと周囲に誰もいないことを確認すると、声をひそめて囁いた。

「実は妻と別居することになったんです。内緒でお願いしますね」

 言葉を失った。私のせいだろうか。咄嗟にそう思ったのが顔に出たのだろう、彼は苦笑した。

「もう何年も前から話が出ていたんですよ。気にしないでください」

「わかりました。新しい住所がわかりましたら、総務課までご連絡ください」

「ありがとう。それじゃあ、金曜日に直接お話します」

 金曜日に。そう口にしたとき、彼はいたずらっぽく目を細め、背を向けて歩き出した。彼の姿が病棟へ続く階段に消えていくまで、動けなかった。

 彼が離婚するかもしれない。そうわかったとき、私の中に渦巻いたのは罪悪感でも喜びでもなく、戸惑いだった。彼が離婚するとは思えなかった。彼が子どもを愛しているのは知っていたし、どんなときも妻を悪く言うことはなかった。それどころか周囲では愛妻家という評判だった。なにより、抱かれているとき、ふとした沈黙や視線でわかるのだ。私は妻の代用品なのだと。悲しいことに、勘が鋭い女は幸せになりにくいのかもしれない。

 金曜日になったら、色々と話を聞ける。もしかしたら、私たちの関係になにかしら変化があるかもしれないと、期待と不安の入り混じった夜を過ごした。

 けれど、木曜日の夜に届いたメールには『明日、急用で会えない』という言葉があった。深いため息をつき、ベッドに携帯電話を投げつける。

「拓也のところで、たらふく飲んでやる」

 拓也には悪いが、飲まずにはいられそうにもなかった。

 

 

 土曜日の午後六時になった。

「いらっしゃい」

 明るく出迎えてくれた拓也の顔を見ると、なんとなくほっとする。家庭クラブで楽しく過ごしていた頃に戻った気がするのだ。

「今日はビールだったよね。いくつか選んできた」

 私から受け取ったビニール袋の重さに、拓也が笑う。

「張り切ってるな。どんだけ持ってきたんだ」

「十種類くらい。エールとかスタウトとか、スタイル別に飲み比べできたら面白いかなと思って見繕ってきたの」

 答えながらリビングに入った私は歓声を上げた。テーブルの上にいっぱいの料理が湯気をたてていたのだ。

「すごい! え、出来立て?」

「ちゃんと約束の時間に合わせて作ったから、まだ熱いよ。今日はラディッシュとクリームチーズのカナッペと明太ポテトサラダ、たらの芽のフリッターと、うどの酢味噌和え。まだ他にもすぐ作れるように下ごしらえしてあるよ」

「嬉しい! たらの芽、大好物」

 甲斐先生と会えなかった週はいつも惨めで寂しいものだ。けれど、このときばかりはそういう鬱々した感情が吹き飛んでしまった。

 私たちは乾杯をして、肴をつまみ始めた。拓也は貪欲に酒の知識と肴の改善点を私から聞き出し始める。

 拓也と話すうち、私は二十年の月日を忘れてしまう錯覚に何度も陥った。無垢だったあの頃に戻ったようで、嬉しかった。

 家でも肴を作ってみたりした。そうすると、今までろくに立ち寄らなかったスーパーの食品売り場が急に楽しくなる。この食材はあの酒に合うかもしれないなどと心が躍るのだ。

 拓也が肴を通して旬の食材を教えてくれるたび、今まで無機質に流れていた時間が少しずつ彩り始めた。流れゆく季節があり、風情がある。そんな当たり前のことを忘れてしまうほど、私の生活は単調なものだったのだと思い知る。

 けれど、拓也の料理のおかげで何かが変わった気がしても、甲斐先生と金曜の夜に会いたい気持ちはなくならない。それがどんなに不実で傲慢なものだと自覚していても。私はバカだ。時間を無駄にしている。そう思っていても、寂しさを埋めたい。ただ、それだけだった。  廊下で話したとき以来、彼と言葉を交わしていなかった。理由は毎度違うものではあったが、金曜日はずっと用事があるようだった。直接話すとは言われたものの、別居の話をメールでもいいから詳しく聞きたいのを必死に我慢した。けれど、新しい住所を総務課に報告する気配はなく、そのまま一か月が過ぎた。

 

次回の更新は2020年12月4日になります。

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