蝉の喝采 第四回 / 深水千世
五月最初の酒はウイスキーのシングルモルトと決まり、肴は鶏肉のハーブソテー、ムール貝のトマト煮込み、オクラとみょうがの糠漬けだった。
「美味しいよ!」と目を輝かせるが、拓也はいまいち渋い顔をしている。
「ムール貝の臭みがちょっと残ったかな。課題があるよね」
ぶつぶつと呟き、ノートに改善点をメモしていく。ハイボールを飲んでいるせいか、下戸の彼はすっかり顔を赤くしていた。
「こっちは香辛料の香りが強すぎたかな。ハイボールじゃなくてストレートで飲んで食べてみてくれる?」
いつもこの調子で飲み合わせを比べるものだから、私もついつい酒がすすむ。拓也はメディアにも出演し、既にたくさんのレシピ本も出している。料理教室も生徒が集まって盛況だ。それなのに努力を惜しまず活動する姿は輝いて見えた。一方、その光が私の影を濃くすることも事実だった。私はいつまでたっても仕事にやりがいも持てず、虚しさばかりの不倫にしがみついている。惰性で生きているんじゃないだろうか。そう思えて惨めになる。いつも抱えている想いだが、こうして拓也の前にいると、焦りすら感じるのだった。
ほろ酔いで目がとろんとしてきた頃、ようやく彼はノートをたたんだ。
「そういえば、家庭クラブは弓道部とかけもちだったよね。今でも弓道は続けているの?」
「ああ、うん。市の弓道場でたまにね。でも、この頃ちっともうまくいかない」
私は愚痴りながらグラスに氷を足した。
「結構前からね、思うように射ることができないの。集中できないっていうのかな。なんでかな」
小さな嘘をついた。なんとなく原因はわかっている。うまく中らなくなってきたのは、甲斐先生と会う回数が少しずつ減ってきた頃からだ。飲み会、学会、残業、病棟からの呼び出し、色んな言い訳を聞いてきたけれど、どれも本当かわからない。嘘じゃないかと疑う自分にも疲れ果てていた。彼は決して『愛している』とは言わない。どんなにきつく抱きしめてくれても、どんなに熱のこもったキスを繰り返してくれても、その一言だけは聞いたことがなかった。そして甲斐先生が優しくしてくれればくれるほど、『愛している』のない虚しさだけが残り、心に沈殿していくのだった。
「なにもかも、うまくいかない。ジャンクな毎日でさ、このままでいいのかなって」
拓也は「ふぅん」と小さく呟き、自分のグラスにウイスキーを注ぐ。
「それで料理教室に通おうと思ったの?」
「そう、何か変わりたくて」
すると、彼は屈託のない笑顔でこう言い切った。
「変わるよ」
「えっ」
「ただでさえ変わりたくなくても変わってしまいやすい世の中なんだから」
「でも、変わらないっていうか、なかなか変われないものってあるじゃない」
「うん。俺さ、梢がどう変わりたいのか知らないけど、とりあえず今は肴くらいは作るようになっただろう?」
「え、うん」
「今まで食べてこなかった旬の美味いものを食べていれば、何かしら変わってくるよ。食は人を作るから」
他の人だったら、何も知らないくせにと思ったかもしれない。けれど、拓也のいつくしむような目が、不思議な説得力を持っていた。
「俺もそうだった。小さなクロワッサンが俺を料理人に導いてくれた。食が力になってくれるさ」
「クロワッサン?」
「覚えてるかな? 昔、梢の前で泣いたことがあったろ」
買い出しのとき、根子という人物の訃報を聞いたときのことだ。
「うん、そのあとで香典に名前書いたよね」
「すごく俺に影響を与えてくれた人だったんだ。普通ならすれ違っても気にも留めないような歳上のおじいちゃんさ。だけど、彼が図書館でクロワッサンをお裾分けしてくれたから、今の俺がある」
当たり前のことに気が付いた。拓也だって、悩み苦しむことがあったに違いないのだ。だけど、自分で道を切り開き、ここまで来た。拓也の手をじっと見る。その節くれだった手は、どれほどの料理を作ってきたのだろう。そして私の手は、これから何を掴めるのだろう。
「変わりたいと思ったら、変われる可能性は格段に跳ね上がると思うよ」 穏やかな声だった。私は自分の小さな手を見る。その中にほんの少し、希望が見えた気がした。
次回の更新は2020年12月5日になります。
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