蝉の喝采 第五回 / 深水千世
それから三日後のことだ。
「水川さん、まだ残ってるの?」
上司が帰り支度をしながら、声をかけてきた。
「すみません。臨時職員の給料計算が終わったら、帰ります」
時計の針は既に夜の九時をさしている。
「大変だけど、ほどほどにね。じゃあ、お先に」
「お疲れ様でした」
上司が出ていくと、大きな伸びをした。総務課で残っているのは私一人だ。ただひらすら電卓をたたいて百人分の給料を計算している。いつもは臨時職員が手伝ってくれるのだが、体調不良で欠勤していたのだ。
がらんとした総務課を見渡し、ガラス窓に目をやる。窓は中庭に面していて、向こうには医局がガラス越しに見える造りになっていた。ちょうど、私のデスクからは甲斐先生が使っている研究室が見えるのだ。扉の摺りガラスから明かりが漏れている。夜勤なのだろう。
はじめは、ただ同じ病院に勤務する医師の一人にすぎなかった。たまたま医局の飲み会を抜け出して一人で飲んでいた彼とバーで鉢合わせし、一緒に飲んだ。三つ年上の彼は気さくで、話も弾み、真夜中を過ぎた頃、バーカウンターの下で彼の手は私の手を握っていた。それが始まりだった。
相手に妻子がいることなんて、もちろんわかっていた。なのに、私は帰りのタクシーで彼が運転手にホテルの名前を言ったとき、止めなかった。
まるで子供のように残酷な話だが、嬉しかったのだ。恋人と別れて久しかった私は女としての自信をすっかり失っていた。そんな私を求めてくれたことが、心のよりどころになってしまった。何度もこれは間違った道なのだから、断たなければならないと心に決めた。それなのに、彼の『愛している』を聞くまではと意地になる。このまま終わらせたくない。
「気分転換でもしよう」
給湯室で熱いコーヒーをいれ、デスクに戻ったときだった。
息が止まる。彼の研究室から内科病棟の看護師長が出てきたのだ。しかも、髪を軽く撫でつけるように整えながら。そして彼女は総務課の前を通り過ぎるとき、こちらを見て意味ありげに笑みを浮かべた。挑発にも哀れみにも似た笑みだった。
ぽたりと書類に涙が零れ落ち、慌ててティッシュでふき取る。だが、次から次へと涙が溢れてくる。視界がぼやけて数字が読めない。
自分だって不倫しているじゃないか。彼を責められるのは奥さんだけじゃないか。自分以外の女を抱いたからといって、それに口を出す筋合いはない。
けれど、それでも、どうして職場でこんな気持ちにならなくてはいけないのか。どうして目と鼻の先に自分がいるのに、他の女と体を重ねられるのか。嫉妬、怒り、やるせなさ、そういうものが一気に腹の底をうねりだしていた。
翌日、私は初めて仕事を休んだ。夜通し泣き続け、目も当てられないほど瞼が腫れ上がっていたからだった。
一日中、ベッドから起き上がることができず、何も食べず、ただ天井を睨むように見ていた。誰かに聞いてもらいたい。吐き出したい。けれど、誰がこんな話を聞いてくれるだろう。自分が悪いのは百も承知なのに。
たださめざめと泣き、疲れて呆然とし、また泣き続ける。そうしているうち、部屋に西日がさしてきた。私はのそりと起き、鏡を見る。我ながらやつれてひどい顔だ。目は真っ赤で、黒々としたクマができている。
お腹はすいているけれど、食べる気がしない。作るどころかコンビニで買ってくるのも億劫な有様だ。泣きわめきすぎたせいか、喉が渇く。
炭酸水を取ろうと冷蔵庫を開けた。ほとんど空っぽの庫内に、鶏肉のパックがぽつんと置いてあった。拓也がハーブソテーのレシピをくれたので、作ってみようと買ってきたのを思い出す。
拓也の顔を思い出し、携帯電話を見つめた。彼の番号を選び、画面をタップするだけだ。それなのに指が動かない。
拓也の『変わりたくなくても変わってしまいやすい世の中なんだから』という声が脳裏によみがえった。だからこそみんな、変わらないものを尊び、求める。私は変わりたいと思いながら、変わらないものを欲していた。けれど、あの人の心は変わってしまったんだろう。
ぼやけた視界の中で、画面を押した。呼び出し音が鳴るのを聞きながら、鼻をすする。
「もしもし」
その声を聞いた途端、どっとまた涙が溢れた。安堵にも似た涙だった。
「助けて」
私はそう言ったきり、その場に泣き崩れてしまった。
次回の更新は2020年12月6日になります。
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