迷えるメダカ 第二回 /深水千世

 翌朝、一人で登校する足が重く、ため息ばかりついていた。勇司は野球部の朝練でとっくに学校に行っている。俺も野球部に入ろうかと思ったが、とてもじゃないけれどついていけそうにない。桐生市の夏は特に暑い。今だって地肌がじっとり濡れている。こんな中で野球なんてしたらぶっ倒れてしまう。

 鬱屈した気分で天を仰ぐと、交差点にある小さな標識が視界に飛び込んできた。左向き矢印の横に市立図書館分館まで二百メートルという文字。

「へえ、図書館があるのか」

 チェロに取り組む前は図書館に入り浸ってていたのを思い出し、懐かしさがこみ上げた。しかも冷房で涼しそうだし、近い。ちょっと思案して、真っ直ぐ進むはずの道を左に曲がった。初めて学校をサボることに罪悪感がなかったといえば嘘になる。けれど、あの重苦しい教室に行かなくて済む開放感と、まだ見ぬ世界への期待で胸が膨らんでいた。

「おおう、想像以上に綺麗じゃん」

 田舎の図書館なんて古くさいだろうと決めつけていたが、ガラス張りで意外なほどモダンな建物だった。市役所支所の二階が図書館分館になっていた。

「なんだ、閉まってる」

 開館時間には早すぎたらしい。辺りを見回すと、ガラス張りの壁に向かって設置されたテーブルと椅子が目に入った。そこに一人のじいさんが座って本を読んでいる。彼も開館するのを待っているのだろう。俺は少し離れた席に荷物を置いて腰を下ろした。携帯電話を見ながら過ごしていると、九時ちょうどに司書が自動ドアのロックを解除した。

 図書館に一歩足を踏み入れると、古くさい紙の匂いが鼻をくすぐる。この匂い、嫌いじゃない。カウンターに一人の女性司書がいて静かに会釈をしてくれた。小さく会釈を返したものの『学校は?』と詮索されるのが怖くて、足早に本棚の向こうに身を隠した。

 分館だけに、中はそれほど広くはなかった。蔵書も限られていて、大好きなアガサ・クリスティの文庫は三冊しかない。がっかりしたような、こんなもんだろうと納得したような、複雑な気持ちで本棚の間を歩く。

 ふと、芸術関係の棚の前で足が止まった。目に飛び込んできたのは『富田紫峰作品全集』と書かれた背表紙。俺の父親の画集だ。

 父親は名の知れた日本画家だ。けれど親としてはひどいもんだと思う。寝ても覚めても絵のことばかり。家族に全く構わない。生まれ故郷に戻って、幼い頃から見ていた山のある風景を描きたい。ただそれだけのために俺たち家族の反対を押し切った。とんだ身勝手だ。

 母親は俺をチェリストにしようといろいろ力を尽くしてくれた。先生に師事できなくなるから東京に残ろうと父に猛抗議した。先生はオーケストラの主席奏者で、他のプロと組んでカルテットとしても活躍する実力者だった。それほどの先生が田舎で見つかるはずもないと母親は言い張った。でも、引っ越しを拒んだ彼女の本音は贅沢好きで田舎を毛嫌いしていたからだ。

 離婚するまで、毎日のように両親は喧嘩していた。その間、俺を慰め癒してくれたのはチェロだった。そのチェロを習い続けることができないのも、部活を無理強いされる学校に通う羽目になるのも、全部父親の我が儘のせいだとしか思えなかった。

 画集の背表紙に背を向け、分館の中をぐるっと見て回った。昔よく読んでいた児童書を手にすると、あまりの懐かしさに、ささくれだった気分が紛れた。閲覧席で二冊ほど読了し、昼食は分館を出てすぐのベンチで自作の弁当を掻き込み、また戻る。結局、下校時刻まで入り浸り、何食わぬ顔で家路についた。

 帰宅しても、父はアトリエにこもりっきりで顔を合わせることもなかった。居間は暗く、静まり返っている。晩ご飯は仕方なく俺が作るものの、父親がいつ食べるかわからないから冷蔵庫にさっさとしまう。時には朝になっても手をつけていない日もある。彼は絵を描いていると寝食を忘れてしまうのだ。

 もっとも、俺も父親のそういうところが似てしまったらしく、昔から好きなことをしていると時間を忘れてしまう。チェロの練習にしても読書にしても、周りの音が耳に入らなくなってしまうときさえあった。

 そんな俺には、誰にも邪魔されずに思いっきり本を読めることは幸せだった。チェロの他に現実逃避する方法は本しか思いつかなかった。もう部活のことも父親のことも、幼稚で劣等感まみれのクラスメイトのことも考えたくないんだ。

「図書館、行こう」

 翌朝、玄関を出たときには既に、しばらく学校をサボることを決意していた。勇司には昨夜のうちに電話で伝えていた。彼は短く「そうか」と、何も触れずにいてくれた。彼は馬鹿ではない。自分に何もできることはないと知っているのだろう。ただ「もう夏休みになるしな。その間、ゆっくり考えたらいいがね」とわざと明るい声で答えてくれたのだった。

 図書館の入り口に行くと、昨日と同じ男がまた椅子に座って開館時間を待っていた。白髪交じりの丸顔で、頬がつやつやだ。俺に気づいた彼は、愛想良く小さな会釈をしてくれた。絵に描いたような好々爺だ。俺も会釈を返すと、昨日と同じ場所に座り、同じように時間をやり過ごす。

 九時になると、好きな児童書を手に取って、閲覧席に腰を落ち着けた。電子書籍もあるし気軽にネットで本を買える便利な時代ではあるけれど、アナログな図書館には本との思わぬ出会いがある。自分だけではたどり着けなかったであろう選択肢があちこちに陳列されているのが面白い。

「ねえ、君。児童書、詳しい?」

 突然、斜め向かいに座っていたじいさんが声をひそめて尋ねてきた。あの開館前にいた好々爺だ。昨日、俺が帰っても彼は図書館に残っているようだった。そんなに長い間入り浸るなんて、よほどの本好きなのだろう。昨日も今日も実用書の棚から数冊持ち出しては食い入るように読み、時々ノートにメモをとっていた。あまりに熱心なので気になって見てみると、料理の本ばかりだったのが印象に残っていた。俺も自炊はするから、なんとなく親近感を抱いたのだ。今日の彼は、お菓子のレシピ本を開いていた。それなのに、どうして児童書のことをきいてくるのだろう?

「それなりに」

 戸惑いながら返事をすると、じいさんは目を細める。くっきりと濃くなった目尻の皺が人好きのする印象だった。

「君のおすすめを教えてくれないかな」

「俺が、ですか?」

「君、ずっと児童書を読んでいるみたいだから。詳しいんだろ?」

 俺が彼の本を盗み見ていたように、彼も俺の選ぶものを目ざとく観察していたようだ。

「児童書って面白そうなんだけど、どれから手をつけていいかわからなくてね」

「どんなのが好みですか? ハッピーエンド? 泣けるやつ?」

「とにかく哀しくないやつがいいな」

「じゃあ、まずはこれ、どうぞ」

 俺は手にしていたミヒャエル・エンデの『モモ』を差し出した。

「読んでおいて損はない名作ですよ」

「そりゃあ、どうも。できれば他にも教えて欲しいな。メモをとるから」

 変なじいさんだな。眉をひそめた瞬間、派手に俺の腹が鳴った。かあっと顔が赤くなり、じいさんは目を丸くする。そして「くくっ」と笑ってから、こう切り出した。

「君、お昼はどうするん?」

「あ、おにぎり持ってきてるんで、外のベンチで食べようかなって」

「ちょっと早いけど、休憩しない? パンを持ってきてるから、少しわけてあげるよ」

「は、はあ」

 渋々返事をしながら、そういえば俺って案外流されやすいんだったと思い出す。ここのところ人と接してないからすっかり忘れていた。警戒心はあれど、勇司以外の誰かと会話したのも本当に久しぶりで、少しだけ嬉しくもあった。

 外に出ると、まるでサウナにいるような熱気が体を包み込む。

「コーヒー、飲む? ブラックだけど」

 じいさんはベンチに座り、コーヒーボトルを取り出す。

「……ブラック、飲めないんで」

 ミルクと砂糖がないと飲めないなんてガキだと思われただろうか。そんな卑屈な考えが浮かんだが、彼は意に介する様子もなく「あ、じゃあ何か飲み物はあるん?」と尋ねてくる。

「いえ、自販機で買おうと思っていたんで」

「じゃあご馳走するよ。おすすめを教えてくれたし、お昼に付き合ってくれたお礼」

「え、すみません」

「いいよ。一人で食べるのもつまらなかったんだ。こんなじじいとご飯を食べてくれるんだからありがたいこった」

 そう笑い飛ばし、彼は自動販売機で冷たいお茶を買ってくれた。礼を言って一口含むと、心地よい冷たさが喉を走る。人心地ついて「はあ」と声が漏れた。

「美味そうに飲むね。さあ、こっちもどうぞ」

 彼が差し出したのはタッパーに詰められたミニクロワッサンだった。手の平におさまるほど小さく、こんがりキツネ色に焼けて美味しそうだ。表面は溶けた砂糖が艶々としていた。

「いただきます」

 一口頬張ると、サクッという軽い食感と共にバターの香りが広がった。飴状になった砂糖の甘みと絡まり、思わず「美味い」という言葉がこぼれる。

 おじいさんは黙って微笑み、コーヒーをすする。ミニクロワッサンをちょっとコーヒーに浸してから口に運ぶ様子はなんだかパリジャンのようにこなれていて粋だった。

「自己紹介がまだだったね。僕は根子といいます」

「ネコ?」

「そう、根っこの根に子どもの子で、ネコ。変わった苗字でしょう?」

「そうですね」

「君は?」

「富田です」

「その制服は……すぐそこの中学校だね」

 ギクリとした。学校はどうしたのか訊かれるのだろうかと身構えたとき、ネコさんはにんまり笑った。

「本が好きなん?」

 学校のことに触れずにいてくれたことが嬉しくて、ついこちらから口を開いた。

「はい。あの、ネコさんはどうして料理の本ばっかりなんですか」

「お、よく見てるね。こう見えてパン職人なんだ」

「えっ。じゃあ、このクロワッサンって?」

「僕の手作り」

「すっげえ!」

 思わず大声で叫んでしまった。

「だからか。このクロワッサン、本当に美味いっす」

「ありがとう。でもね、もう引退したんだ。娘には『今まで働いてばかりだったんだから、自分の好きなことをして暮らせ』って言われるんだけどね。いざ自由の身になってみたら、仕事以外に何をしていいかわかんねえもんだな。年金暮らしで娘夫婦に厄介になっている身だし、お金もかけたくないから図書館に入り浸っているわけさ」

 朝早くから来るのは、家に居づらいのかもしれない。そう考え、少し彼に同情した。ネコさんはのんびりした口調で話を続ける。

「でもさ、結局手にとるのは料理の本ばかりなんだよな。それで思い切って、君のアドバイスをもらおうと思ってさ」

「なんで俺なんです?」

「だって何時間もここにいるから、よほど本が好きなんだと思って」

 ぎくりと肩を震わせた俺に、ネコさんは唇の端を吊り上げた。

「サボタージュだろ? 僕も若い頃は散々やったもんだ」

「はあ」

 なんだ、怒られない。拍子抜けしたのが顔に出たのか、彼は笑った。

「学校につき出すようなことはしないから安心しなよ。何かわけがあるんだろ? 物事には理由ってもんがあるのが常だからさ」

「はあ、実は」

 部活動の話を手短にすると、ネコさんが呵々と笑う。

「なんだ、僕と同じだな。何かしなきゃいけないんだろうけど、何をしたらいいのかわからない同士だ」

「……そうかも」

 ふっと噴き出した。不思議な人だ。この人と話していると警戒心とか猜疑心のようなものが消し飛んでいく。学校ではどんな一言が陰口の起爆剤になってしまうかわからない。けれどネコさんにそんな心配はいらないのだと思えた。

「ゆっくり探してみればいいんだよ。富田君はまだ中学生なんだし、その年でやりたいことが見つかっているほうが奇跡だ」

 ネコさんはそう言うと、「そうだ」と目を輝かせる。

「しばらくここにサボりに来るなら、もっとおすすめの本を教えてくれよ」

「ていうか、明後日からもう夏休みなんで堂々と来ますよ。課題もしたいし」

「はは、そりゃあいい。じゃ、待ってっから」

 こうして俺とネコさんの奇妙な日々が始まったんだ。

 

第三回(2019/12/27)に続く

« »

HOME > 深水千世 > 迷えるメダカ 第二回 /深水千世