迷えるメダカ 第三回 /深水千世
翌日、終業式が済むと、入部届を催促する田中先生を避けて校門を飛び出した。図書館の自動ドアを開け、冷房のきいた空気を浴びながら閲覧席に向かう。実用書の棚に近いところに、あの丸顔が見えた。こちらに気づき、軽く手を振ってくれた。
「こんにちは」
「やあ、今日は遅かったんね」
「終業式だったんです」
「そうか、そうか。お疲れさん」
小声でそんな挨拶を交わす。そしてネコさんはミヒャエル・エンデの『モモ』を手に満足そうな笑みを浮かべた。
「君のおすすめ、すごく面白かった。僕はベッポが気に入ったな。それに金色の朝ご飯のパンがたまらんね」
「やっぱりパン職人はそこが気になるんですね」
思わず噴き出してしまい、慌てて声を落とす。
「じゃあ、次はどんなのがいいですか?」
「わくわくするのがいいな」
「ああ、ううん」
少し思案し、彼の丸顔をじっと見つめた。誰かに似ている気がして、すぐにピンときた。
「待ってて」
児童書の棚に急ぎ、視線を走らせる。お目当ての本はすぐ見つかった。表紙には『ドリトル先生アフリカゆき』というタイトルと影絵風のイラストがある。
「どうぞ」と手渡すと、彼は「ほう、ドリトル先生? へえ、井伏鱒二が翻訳しているのか」と目をぱちくりさせる。
井伏鱒二が翻訳した本には作者のロフティング自身が描いたイラストが挿絵として使われている。その中に描かれたドリトル先生という登場人物がネコさんにそっくりだったのだ。団子のような丸みのあるシルエットに、お人好しそうな目。
「俺、本当はこのシリーズの二作目が好きなんだ。だけど、最初から読んだほうが話がわかりやすいかなと思って」
「そうか、どれどれ」
ネコさんはわくわくした様子でページをめくり、それっきり黙ってしまった。それを合図に、俺も自分の読みたい本を読み、飽きたらいつもは近寄らない分野の棚の前で新しい発見がないか目を走らせる。なんでもいい。チェロに代わる、これから自分が打ち込める何か……時間を忘れられる、やり甲斐のある何かが欲しい。けれど、そのヒントすらどこにあるのかわからない焦りともどかしさがこみ上げるばかりで、結局また安息を求めて児童書に手を出す。
ネコさんはすっかり夢中になってしまったらしく、夕方には『ドリトル先生アフリカゆき』を読了してしまっていた。
「君のいちおしは二作目なんだよね?」
「はい、『ドリトル先生航海記』ってタイトルなんですけど」
二人で棚を探したが、あいにく貸し出し中になっていた。
「ちょっと待ってください」
俺は自分の鞄からルーズリーフとペンを取り出し、幾つかのタイトルを書き連ねた。
「ネコさん、読むの早いみたいだし、とりあえずこれだけまとめておきます」
「ありがとう。借りて帰ることにするよ」
そう言うと、彼はメモを片手に嬉々として児童書の棚の前に立った。その横顔はまるで少年のようであり、自分のおすすめを喜んで手にしてくれることがなんだか嬉しかった。
彼は帰り際、小さな袋を手渡してくれた。中にはあのクロワッサンと小さなデニッシュ、ベーグルがある。
「面白い本を教えてくれたお礼だよ」
「えっ、そんな、いいですよ」
「いいんだよ。僕ね、うちで食べるパンを毎日作らせてもらっているんだ。何かひとつでも仕事がしたくてさ。おすそわけみたいなもんだから気にしないで」
頬と耳が赤くなるのを見て、このパンは彼なりの精一杯の真心なのだと悟る。
「ありがとうございます。いただきます」
それ以来、俺がおすすめの児童書を教え、彼が焼きたてのパンを持ってくるのが、毎日の恒例行事になった。ネコさんは作中に登場する食べ物に興味をひかれるようだった。一週間ほどした日、一緒にご飯を食べていた彼は「僕ね、料理学校に行っているときはシェフになろうかと悩んでいたんだけどね、パンに取り憑かれちゃったんさね」と、はにかんだ。彼は午前中に『秘密の花園』を読んだらしく、ぶどうパンが登場した場面に大喜びだった。
「本の中に食べ物が出てくると嬉しくなっちゃうけどね、パンはやっぱり特別だね」
彼はそう言って、コーヒーを飲み干した。その横顔は仕事への誇りと愛着が滲んで穏やかだった。思わず、こう問いかける。
「ネコさんは、どうしてパン職人になったんですか?」
「うん? まぁ、そうだね」
ネコさんはハンカチで汗の滲んだ額をつるりと撫でながら答えた。
「うちは家族みんな料理に携わる仕事をしてたんよ。両親は洋食屋を営んでいたし、兄は中華、姉がイタリアンの道に進んだ」
「へえ、すごいですね」
「でも末っ子の僕はどんくさくてね。兄や姉と比べられるのが嫌で、パン職人になることにしたわけさ。こつこつ毎日パン生地を練るのがね、自分の生き方に合うような気がしたんだな」
「いいな」と思わず呟く。「俺もいつか、そんな風に自分の道を決められるのかな」
「君は焦っているんだね?」
こくりと頷く。
「どこに居ても『ここにいるべきじゃない』と思うんです。やりがいのあることを何かしたくても、何もない田舎で何をしていいかわからない。焦りと不安ばかりで息が詰まりそうです。ふよふよと頼りない、自分の道もわからない、俺は迷子のメダカだ」
吐き捨てるように言ってから、自嘲する。
「俺、陰で『メダカ』ってあだ名つけられてるんです。有名人の息子のくせに地味で小さくてパッとしないって。あ、俺の父親って画家なんですけどね。でも俺には絵が描けない。俺だってパッとしないと思いますよ」
惨めさがこみあげ、目頭が熱くなった。かあっと顔が赤くなり、いたたまれなさのせいで口が止まらない。
「俺もどんさくいんです。父親のように才能があるわけじゃないし、母親のように見かけが良いわけでもない。頭も良くない、運動もからきし、体も見ての通り小さいでしょ。前から数えて二番目くらいかな」
どんどん心が重くなり、足下に視線を落とす。ネコさんがどんな顔をしているのか見るのが怖くて、顔を上げられなくなった。
「でもどうしたらメダカじゃなくなるのかわからないんだ。やり甲斐のある仕事を見つけられたとしても俺みたいなメダカにできるか自信がない」
一気に喋り通し、拳を握った。情けないと思われたか、哀れまれたのか。ネコさんは何も言わない。突然、彼はわしわしっと俺の頭を乱暴な手つきで撫で回した。驚いて顔を上げると、ネコさんは何も言わずただ目を細めていた。気を悪くした様子もない。同情の目つきでもない。ただ、まるで懐かしいものを見るような顔つきだ。それで俺はなんだか気が緩んでしまった。この人には俺が呑み込んでいるいろんなものを話しても大丈夫かもしれない。そんな気がした。
「そういうことはね、わからないもんさ。でも、目の前のできることをがむしゃらに片っ端からやってみたらいいがね」
「やるって何を?」
「なんでもいいさ。自分の知らない分野に挑戦するのもいいし、元々好きだったことを深めるのもいい。ああ、そうだな、自分の『好き』に素直でいてほしいな。そうしたら自然と疑問が出て、勉強が必要になって、身について、成果が出てくる。全部あとからついてくるんだ」
「だったら、図書館で好きな本読んで学校をサボるのもいつか意味があることになる?」
「意味があることにするんだよ、君が。夢をたくさん持つより、好きを一つでも多く見つけて大切にすることから始めたらいいさ」
その日を境に、俺の中でネコさんの存在がぐっと近くなった。
本の感想を話し合ったり、世間のニュースに議論を交わしていくうちに、なんだかネコさんがますますドリトル先生に見えてきた。自分の話を聞いてくれ、認めてくれ、諫めてくれ、導きもするし、委ねてもくれる。自分の親にはまず望めないものだった。 小さい頃の俺は『ドリトル先生航海記』に登場するトーマス・スタビンズという少年になりたかった。動物たちからはトミーと呼ばれ、先生のもとで動物語を習い、一緒に旅をし、沼のほとりのパドルビーという街で暮らしている。今ならどうして憧れたのか嫌ってほどわかる。動物語を話すより、住み込みの弟子になることより、先生のような大人にそばにいてほしかったんだ。だってうちの父親とは正反対だから。
第四回(2019/12/28)に続く
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