迷えるメダカ 第四回 /深水千世

 ネコさんとやりとりを始めて二週間がたとうとしていた日のことだった。

「拓也」

 図書館に行こうと玄関で靴を履いていると、背後から父親の声がした。俺を呼ぶなんて珍しい。眉をひそめて振り返ると、苦々しい顔つきの父親が立っていた。

「お前、毎日毎日どこに行ってるんだ?」

「別にどこだっていいだろ」

「いいから答えなさい」

「図書館だよ。夏休みの課題と読書をするだけ。別に文句言われる筋合いないと思うけど?」

「そうか。いや、それならいいんだが」

 家族が何をしようが詮索ひとつしたことのない父親にしては珍しい。不気味にすら思えて「なんかあった?」と尋ねる。すると彼は四角い眼鏡を指で持ち上げ、ゆっくりとこう言った。

「昨日、担任の田中先生から電話があった」

「は?」

「お前、部活動決めてないんだって?」

「別にたいしたことじゃないでしょ」

「なんでもいいが、先生にご迷惑はかけるな。向こうも仕事なんだ」

「誰かさんのせいで突然転校して間もないってのにさ、どこでもいいから部活しろなんて言われて、さっさと決められるほど俺の時間は安くないんだよ」

 向かっ腹が立った。家に余計な電話を入れた田中先生にも、自分の我が儘で家族を振り回すことになんの罪悪感も持たない父親にも。

「なんでもいいってなんだよ? 父さんはいつもそうだ。俺と母さんが何をしても、どんな想いをしてもお構いなしでさ。そんなに絵と自分が大事なら家族なんて持たなきゃいいだろ! そんなんだから母さんに捨てられるんだ!」

 激高する俺を、父親は黙ったまま冷ややかな目で見ていた。それがますます俺の神経を逆撫でする。

「珍しく口を開けば俺より先生の味方だしさ。どうせ俺は気にかけてもらえるほど才能もなんもない、パッとしない男だよ!」

 その瞬間、パンッと乾いた音がし、視界がぶれた。頬に走る痛み。思わず手で押さえると、じんじんと熱くなった。俺は生まれて初めて父親に叩かれた。

「何するんだよ!」

 叫ぶ俺を見据え、彼は低い声で言った。

「お前まで私の人生の汚点になるな」

 踵を返し、アトリエに消えていく背中は果てしなく遠く感じた。俺はただただ呆然と見送るしかなかった。

 そのあと、どうやって図書館に着いたのか覚えていない。ただ、ネコさんが俺に向かって手を振ってくれた途端、堰を切ったように涙があふれ出た。恥ずかしさとか情けなさとかそんなものには構っていられなかった。子どものようにべそをかき、ネコさんに促されるまま外のベンチに座る。彼は俺が泣き止むまで、とんとんと背中を優しく叩いてくれていた。まるで幼子を寝かしつけるように。

 やがて泣き疲れてくると、どんどん恥ずかしさがこみあげてきた。おそるおそるネコさんの顔を見ると、彼は眼を細め、口の端に穏やかな笑みを浮かべた。まるで「いいんだよ」と無言で伝えているような、そんな笑みだ。

 そばにいるだけで心が無防備になる相手っているんだ。そう気づいた瞬間、安堵でふっと肩の力が抜けていた。

「すみません、みっともなくて」

 掠れた声で謝ると、彼は優しく言った。

「何かあったんだね?」

「俺、どうしたら父親に見てもらえるんだろう」

 するっと、心の奥底に隠し続けていたものが飛び出てきた。親友にも打ち明けたことのない悩みだった。でも、ドリトル先生のような彼には自然と話すことができた。この土地に引っ越すことになった経緯を話し終え、俺は鼻をすすった。

「俺ね、両親にもっと構ってほしいだけのガキなんです。クラスメイトをガキだと言っておきながら、誰よりもガキなのは俺」

「でも、君のお母さんはチェロを通して君の頑張りを見ていたんじゃないんかい」

 慰めるような声に、首を横に振る。

「俺、知ってるんです。母親が俺にチェロを始めさせた理由って、自分が諦めた音楽家になる夢を代わりに叶えて欲しいからだってこと。あの人は自分のために俺の音楽活動を支えたんです。それにね、先生と不倫していたってことも知ってるんだ。結局は、自分が先生と離れたくなかっただけ。俺のことを考えていたわけじゃない」

 口にすればするほど、惨めさで体が縮みそうだ。ところがネコさんはにやりとして俺の丸まった背中をどんと叩いた。

「安心したよ」

「へ?」

「富田君は受け答えもしっかりして歳の割にさめた見方をするだろう? 急ぎ足で大人になっているようで心配だった」

「どういうことですか?」

 すっかり面食らった俺に、彼はこう続けた。

「ガキ上等だがね。親に見てもらいたいって願望は恥ずかしいことじゃないさ。むしろ悩んで当然のことだがね」

 彼はそう言いながら鞄の中からあのクロワッサンを取り出し、そっと手渡してくれた。促されるまま口に入れると、クロワッサンの生地に練り込んであるのか、ほんのりキャラメルの味がした。

 ネコさんもクロワッサンを頬張りながら、ふふっと笑う。

「僕も似たような想いをしたことがあったよ。でも親って見ていないようで見ているもんなんだ。本当に見ていないなら、見ずにはいられないようにすればいい。一番簡単なのはね、親もうらやむような、輝かんばかりの人生を送ればいい」

「でも、どうやって?」

「好きなものをとことん楽しんで。そういう顔が親にとっても一番嬉しいものさ」

 それから彼はこうも言った。

「忘れちゃいけないのはね、親も君と同じ人間ってこと。父親や母親である以前に、ただの男と女。彼らは彼らの好きなものを追っているだけであって、だからといって君をないがしろにしているわけじゃないと思う。そうでなかったら呑気に学校に通って屋根の下で生活できてないさ」

「そういうものですか」

「そう考えれば楽ってこと」

 変な慰め方だ。思わず笑ってしまうと、彼は満足そうに二つ目のクロワッサンに手を伸ばした。その横顔を見ているだけで、妙に心が軽くなる。俺はすっかりこの人に友情のようなものを感じていたのだ。

 その日の帰り際、俺は鞄の中から『ドリトル先生航海記』を取り出した。

「これ、まだ返却されてないみたいだから、俺の本を貸しますよ」

「えっ、いいの?」

「はい。今日渡そうと思って持ってきたんです」

「ありがとう。楽しみだな。きっとあっという間に読んじゃうだろうな」

 ネコさんはそう言って嬉しそうに本を撫でた。けれど、その言葉が本当かどうかはわからないままになった。次の日からネコさんは図書館に現れなくなったからだ。

 最初は風邪でもひいたかと思った。けれど二日、三日と彼のいない図書館で過ごすうち、どうやら何か理由があるようだと思うようになった。

 自分に落ち度があっただろうか。気づかないうちに嫌な想いをさせただろうか。やっぱり、あんなにみっともなく泣きべそをかいて身内の話を聞かせたのが悪かったのだろうか。そう考えたら気が気でなくなった。

 携帯電話を取りだして、ハッとする。彼と連絡先の交換すらしていないことに気づいたのだ。親しみを抱いていたのはあくまで俺だけで、端から見れば赤の他人なのだと気づくと途端に悲しくなった。いくら心配したって、何があったかも聞き出せない間柄だったんだ。

 彼が姿を見せなくなって一週間ほどした頃、思い切って図書館司書に声をかける。

「すみません、いつもここに来ている根子さんっておじいさんのことでききたいんですけど」

「え? どうされました?」

「連絡をとりたいんです。図書館のカードって登録してますよね。電話番号とか教えてもらうことはできますか?」

 すると、司書は困った顔をして首を横に振る。

「すみません、個人情報ですからそれはできないんです」

「そうか、そうですよね」

「最近、来ませんよね。私もちょっと心配で。根子さんとお約束でもされていたんですか?」

「はあ、そんなようなものです」

「早くいらっしゃるといいですね」

 そう言って、人の良さそうな司書は去っていった。

 その日から俺は図書館で彼を待ち続けた。休館日には入り口にあるベンチで日がな一日読書をした。けれど、彼はずっと来ないまま二週間目に突入していた。夕立の季節は過ぎ、田んぼの稲も立派に育って風に波打つ。ちらほらととんぼの姿が見えてきた。もう夏休みも終わろうとしている。また学校が始まる。こんなもやもやした気分のまま教室へ行くのは憂鬱だった。

 図書館の実用書の棚の前に立つ。ネコさんが読んでいた料理の本を何冊か見繕い、閲覧席でページをめくる。

 洋食、和食、中華、スープ、ジャム……いろんな料理があるもんだと感心する。そしてパンの本をめくるうち、クロワッサンのページで手が止まった。彼のクロワッサンが恋しくて目頭が熱くなる。俺は初めて、この胸に押し寄せるものが『寂しさ』だと気づいた。

「……そうだ」

 俺はすっくと立ち上がり、パンの本を借りた。スーパーへ駆けていき、必要なものを買い揃える。そうして俺は家でクロワッサンを焼いた。ただ待っているんじゃつまらない。再会したとき、ネコさんを驚かせてやろう。そう思ったのだ。

 けれど出来上がったのは悲惨な代物だった。生地はうまく膨らまず、層がバラバラで口当たりも悪いし、端っこが焦げている。思わず失笑してしまうほどの出来だ。悔しかった。もう少しまともなものが作れるだろうと思っていたんだ。

 だから毎日パンを焼いた。俺は生来の負けず嫌いなんだ。ネコさんを驚かせようとした思いつきだけど、どうせなら本職の彼が驚くような美味しいものを食べさせたい。いつしかその想いは、彼の喜ぶ顔が見たいというものにすり替わっていた。

 

第五回(2019/12/29)に続く

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