迷えるメダカ 第五回 /深水千世
少しはましなパンが焼けてきた頃、珍しく朝食をともにした父親は怪訝そうな顔つきで言った。
「最近、米を炊かないな。パンばかりだが、何かあったのか?」
「別に」
澄ました顔で答えると、父親はクロワッサンを口に入れ、かすかに眉をひそめた。けれどそれ以上何も言わなかった。
始業式まであと三日。休館日の図書館の前で、俺は携帯電話をいじっていた。勇司にメールをするために。
『うちの学校って部活のかけもちできる?』
すると、几帳面な勇司はすぐさま返信をくれた。
『できるはずだよ』
『家庭部を作りたいんだけど、勇司も入ってくれない? 名前だけでいいから。他にも話に乗ってきそうな人いない?』
すぐに電話がかかってきた。
「お前、なんしたん? 家庭部って何さ?」
「いや、やりたい部活がないんだったら作ろうと思って」
「思い切ったな。クラスに料理好きの女子がいることはいるし、俺も別に構わないけどさ。何かあったんか?」
「うん、まぁ、できることをがむしゃらにやったほうが楽しいと思ったんだよ」
ネコさんの言葉を噛みしめるように呟くと、勇司が「へえ」と感心したように言う。
「声かけてやるよ。ただ、学校に掛け合わなきゃいけないだろ。顧問の先生も探さなきゃ。お前、またサボるんじゃないの?」
「そこは俺も腹括るよ」
「そうか、じゃあ乗り気な奴が見つかったら教える」
勇司との通話を終え、俺はすぐに学校に電話をした。
「もしもし、一年三組の富田です。おはようございます。担任の田中先生にご相談したいことがあって電話したんですけど連絡とれますか?」
俺に『どこでもいいから』と言った責任はとってもらおう。そんなことを考えてにやりとする。自分にこんな度胸があったなんて知らなかった。『好き』という気持ちは人をこんなにも変えるんだ。俺は自分がメダカからフナくらいには大きくなったような気がしていた。
学校側と話し合い、予算の関係もあってとりあえずは『家庭クラブ』という同好会からのスタートをきったのは、始業式から三日後のことだった。顧問になってくれたのはなんと田中先生だった。
「もうなんでもいい。富田君がやる気になってくれて先生は嬉しい。このまま夏休みが終わっても登校拒否が続くのかと思って心配で心配で、先生どうしようかと」
半分泣きそうな顔の先生は相変わらず頼りなく見えたが、家庭クラブの設立に尽力してくれたときは見直したものだ。
メンバーは俺を入れて六人。勇司のようにスポーツ部と兼任の子は内申点が良くなるかもしれないという下心からだった。それに勇司が目当ての女子、手芸が好きな子、実家がケーキ家の子、そして勇司と俺。活動はいたって自由。普段は被服室で手芸をしてもいいし、レシピの研究をしてもいいし、なんなら学校の課題をしていてもいい。調理実習は月に二回。なんだかんだ言って、その日だけはみんなワクワクした顔で集まるのが笑えた。
「ねえ、手芸って面白い?」
「面白いよ。編み物やってみる? アクリルたわしなら簡単だし、作ってみたら? 水だけでカップの茶渋も落ちるんよ」
「マジで?」
そんなやりとりから、手芸好きのメンバーからなんと編み物まで教わることにもなった。やってみると意外と面白い。一ヶ月もすると俺たちはすっかり打ち解けていた。クラスメイトは相変わらずだったけれど、以前より俺に何か言うことは少なくなっていた。というより、俺が彼らのほうを意識することがなくなったのだ。俺の『好き』は着々と増えていき、毎日をどこか違うほうに導きだした。 でもその間、学校帰りは必ず図書館に寄ってネコさんの姿を時間が許す限り待つことだけは忘れなかった。そして家に帰ってパンを焼く。この頃では少しはましなものが作れるようになって、父親も「またパンか」とぼやくことはなくなっていた。
最終回(2019/12/30)に続く
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