迷えるメダカ 最終回 /深水千世

 そしてとうとう、ネコさんと会えなくなって二ヶ月がたった。

 放課後、いつものように図書館のベンチに腰を下ろす。ちょうど調理実習の日で、みんなと一緒に焼いたクロワッサンがバッグに入っていた。ほんのり香ばしい匂いがする。

 我ながら良い出来だとにやけているうちに、ヒールが路上を叩く音が響いた。駐車場からまっすぐこちらに歩いてくる女性がいる。右手に手提げ袋を持っていた。背が小さく童顔ではあるが、三十代前後だと思われた。

「あの、間違いだったらごめんなさい。あなた、富田拓也君というのかな?」

 戸惑いながらも頷くと、彼女は深々と礼をした。

「私、根子栄二の娘です。いつも父がお世話になっていたそうでありがとうございます」

「根子さんの!」

 慌てて立ち上がり、お辞儀をした。

「あの、根子さんは元気なんですか?」

「もしかして、ずっと待っていてくださった?」

「はい」

「父の言う通りだわ。ごめんなさい。もっと早く来れたら良かったんだけど」

 そう言って、彼女は手提げ袋を差し出した。受け取って中身を見ると、俺の『ドリトル先生航海記』が入っている。それに一通の手紙も。

「父からです。返すのが遅くなって申し訳ないと言っていました」

「あの、根子さんはどうして来ないんですか? 俺、何か悪いことしました?」

「とんでもない。父はあなたに感謝していました」

 そう言うと、彼女は懐から一枚の名刺を取り出した。

「よろしければお店においでください。ここで父がどんな様子だったかお話してくださると嬉しいです。それでは」

 何度もお辞儀をして帰る彼女を見送り、名刺に視線を落とす。そこにはカフェのオーナーという肩書きと、彼女の名前、そして店舗情報が書いてあった。

 ネコさんの娘の姿が見えなくなると、すとんと力が抜けてベンチに座り込む。そしておそるおそる手紙を開封した。

 

前略

 

 初めてお手紙差し上げます。さぞ驚いたことでしょう。いや、もしかしたら怒っているかな。君がこの手紙を受け取っているということは、ずいぶん長いこと図書館で私を待っていてくれたということになるから。会いに行けず申し訳ない。

 実は今、私はがんの治療のため入院しています。君と出会う少し前から放射線治療を受けていました。けれどあまり芳しくなく、今は病棟のベッドの上。君に借りた『ドリトル先生航海記』はここで読了しました。それで私の娘に「図書館に『富田拓也君』という中学生の友人が入り浸っているから本と手紙を届けてくれ」と頼んだ次第です。

 君のおすすめの本はどれも面白かったけれど、このドリトル先生は一番良かった。とても良い本を教えてくれてありがとう。中学一年生の君にとって六十を過ぎた私は『おじいさん』だろうに、良くしてくれて本当に感謝です。今日は君に伝えたいけれど口ではうまく言えなかったことをしたためるので、おじいさんからの手紙に少しお付き合いくださいな。そして乱筆のほど、ご容赦ください。うまく手に力が入らなくてね。

 

 君を初めて図書館で見かけたとき、すぐに学校をサボったとわかったよ。同時にサボタージュには不慣れなこともね。だって不安げに司書さんや他の利用者を見てはビクビクおどおどしていたからね。

 最初は『思春期だもの、学校に行きたくないこともあるよな』とさして気にも留めなかった。けれどふと見ると、君は小心者の顔つきを一変させて美術書の棚を睨みつけていた。そのときの君は怒りに満ちた目をしていながら泣きそうだった。何が彼にそんな顔をさせるのかと、俄然興味がわいた。

 面白がるようなことを言ってすまないね。だってまさか君が富田紫峰の息子で、そのとき険しい顔をしたのは父親の画集を見つけたからなんて、あとから聞くまで知る由もなかった。まして父親の独断で無理やり引っ越してきたことに不満があるなんて。

 次の日も、君は図書館にいた。そして児童文学ばかり読んでいた。きっと君にとって心安らぐ世界は児童文学の中にあるんだと気づき、私も読んでみたいと思ったんだ。

 私がパン職人を引退して、店を娘夫婦に譲ってしまったのは話したね? 実は店はもうパン屋ではないんだ。娘たちは私の店をカフェにしてしまった。お客様にお出しするパンは私が毎朝焼くものの、それが終われば仕事もない。娘たちは「ゆっくり過ごしなよ」と気遣ってくれるけれど、みんなが働いているのに私だけ家にいるのもしのびなくて居場所がないように感じていた。自分の家なのに遠慮するなんて変なものだね。年金暮らしの身だし金のかからない図書館くらいしか身の置き場がなかった。

 図書館に行っても、手にするのは結局何十年も親しんできた料理の本ばかり。仕事一筋で生きてきた私の世界は、すごく狭いんだとこの歳になって知ったんだ。

 どうだい、私も君と似ているだろう?

 君は「どこに居ても『ここにいるべきじゃない』と思う」と言っていた。「やりがいのあることを何かしたくても、何をしていいかわからない」とも。すごく自分に重ねてしまったよ。

 君は「学校でのあだ名が『メダカ』なんだ。体も小さいし、地味だから」と自嘲していた。私は何も言えずにただ頭を撫でることしかできなかった。あれはね、あまりに自分と似ていて、胸が詰まったんだ。

 私も同じだ。自分が築いたはずの家庭なのに、根無し草の気分でね。妻はとうに病死した。娘夫婦は別の家庭で生きている。孫は幼いうちに亡くした。生きていればちょうど君くらいの歳だろう。新しいことに挑戦しようにも老い先短いし、料理以外のことはてんでからきしなんだ。おまけにがんが見つかった。

 このまま死ぬなんて味気ない。いや、死んでもいいか。でも何かを残せたか? つまらない人生じゃないか?

言いようのない焦りと不安。君のものとは違うけれど、似たような気持ちを知っている。実は、私は君くらいの歳の頃、『でんでん』と馬鹿にされていた。でんでんはでんでん虫、つまりカタツムリのことだよ。とろくさくて、いじめられるとすぐうずくまって頭を抱えて泣いていたからさ。私たちは迷えるメダカとカタツムリなんだ。そう思ったら、一気に親しみがわいた。世界中のみんな(君の嫌いな担任の先生も、お父さんもね)迷える何かだとは思うんだけど、誰よりも君とは特別な時間を共有できる気がしたんだ。

 

 君に「おすすめを教えて」と声をかけたのは気まぐれだったけれど、これは私の人生の中で最も有意義なことになったよ。だって、君の安息の場は素晴らしかったから。

 最初に君は『モモ』を手渡してくれた。私は料理本しか読んでこなかったことを心底悔いた。こんなに素晴らしい世界があったなんて。

 君と本についてやりとりしたのはたった二週間ほど。だけど私はたくさんの旅をした。ホビットと一緒に指輪を捨て、ナルニア国でライオンを見上げ、チョコレート工場を見学し、コマドリから秘密の花園を教えてもらった。なんて素晴らしい世界だろう。

 君のいちおしの『ドリトル先生航海記』を読んだとき、作中に登場するトミー・スタビンズ少年が君と重なって応援したくなったよ。そしてドリトル先生が海カタツムリに乗って帰るところは、まるで自分が先生を案内しているような気分になれた。私の心は海の底にいた。初めて自分のあだ名が『でんでん(カタツムリ)』だったことを誇らしく思えたよ。単純なものだね。

 読み終わった瞬間、ここに君がいないことが悔やまれた。この胸の高揚そのままに、真っ先に君とドリトル先生について話し合いたかった。けれど私たちは連絡先も交換していなかったことをすっかり忘れていたんだね。ただふらりと訪れた図書館で顔を合わせ、世間話もそこそこにお互いの世界にのめりこみ、また約束もなく別れる。それだけの関係だ。その距離感は心地よくもあったけれど、こんなにも簡単に会えなくなるものだと気づいて寂しくなった。

 

 私は君に礼を言いたい。

 君を見ているうちに、もう少しこの世に残るのも悪くないと思えたからだ。がんと闘う理由をくれたんだよ。まだまだ読んでいない児童文学があるし、それにもう少し、私の作ったクロワッサンを君に食べて欲しい。なにせ、君はすごく美味しそうに食べるんだ。自覚はないだろうけどね、これは立派な才能だよ。欲を言えば、君のチェロを聴いてみたいな。

 君はこれから仲間のメダカを見つけるかもしれない。他の池に移るかもしれないし、もしかしたら海に出てクジラに化けるかもしれないね。その姿をもう少し見ていたい。そう思わせてくれたことに感謝しているよ。

 いつかまた図書館に行くことができたなら、そこで君が待っていてくれるなら、私はもっとたくさんのことを話したいと思っている。君もそうなら嬉しいよ。

 くれぐれも体を大切にね。私に言われたくないかもしれないけれど、体が資本って本当だからね。

 それでは、また。そう、『また』だ。勝手に殺すなよ。悲劇のヒロインじゃないんだからな。またな。

 

「何が『またな』だよ。会いに来いよ、馬鹿野郎」

 視界がぼやけて、手紙の文字が見えなくなっていた。

 

 その夜、俺は父親をつかまえてこう切り出した。

「俺、学校で家庭クラブ作ったんだ。進路は調理師専門学校に進もうと思ってる」

 すると、父親は俺をまっすぐ見つめた。

「ものを作り出すというのは、簡単なことじゃない。終わりはないし、常に研鑽しないといけない険しい道だ」

 絵画の世界でもそうなのだろう。彼はいつになく厳つい顔をしていた。

「お前にできるのか? 母親の言いなりになってきたお前に、そんな根性があるのか? それにチェロはどうする?」

「チェロは好きだけど、あれは俺の敷いたレールじゃない。俺は違う道をいくと決めたんだ」

 すると、父親は小さく頷いた。

「なら、好きにしろ。自分で決めた道を自力で貫くなら、何も言うことはない」

 それを聞き、どうして父親がチェロを続けることに反対していたかなんとなくわかった気がした。彼は彼なりに俺を見守っていたと気づき、胸に熱いものがこみあげた。

父親は「ただ……」と言いかけ、初めて表情を和らげた。

「たまにはパンでなく納豆ご飯が食いたいんだがな」

 一瞬、呆気にとられ、すぐに笑ってしまった。米を研ぎながら『今度は米粉のパンを作ろうか』などと考えている自分に気づき、思わずにやりとする。何をしていても、何を見ていてもすぐパンのことを考えてしまうところはすっかりネコさんと同じになってしまった。白い米は水を浴び、キラキラと輝いて見えた。

 

次作に続く

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